西田幾多郎の「絶対無」は、「有」の欠如としての「無」ではないとされます。西洋は「形あるもの」に有の働きを見いだした一方で、「無」を「有」の欠如として有無の関係を相対的に考え、「無」を虚無として捉えました。
しかし、東洋では形なきものとしての「無」が、すべての現象を創り出す根源と積極的に捉えられていることを西田は明らかにしました。
西田哲学の研究で知られる小坂国継は、絶対無の説明にあたって西田幾多郎の弟子の久松真一を紹介しながら次のように説明しています。「東洋においては、無はあらゆる有を生む根源として積極的な概念であるが、西洋においては、それは伝統的に有の欠如態として消極的な概念にとどまっていた。それで、このような無の概念の相違を明らかにするために、西田の弟子の久松真一は『東洋的無』とか、『能動的無』とかいった用語を使用している。それは、歴史的に西洋においては見いだされず、東洋において見いだされたので『東洋的無』と呼ぶのであり、また有の『欠如』としての消極的な無ではなく、反対にあらゆる有を生みだす根源であるので、『能動的無』と呼ぶのでる。」(小坂,2002)
神・仏など絶対的なるもの捉え方も西洋ではとって一般的には絶対有として考えられるようです。それに対して東洋の捉え方は、仏教の「空」の思想に代表されるように「無」と捉えます。しかも「無」は、自己や世界の根源であり、それ以上の絶対はないという無であり、相対有と相対無からなる「絶対有」を産み出す無限の働きを「絶対無」と考えるわけです。
しかし、「絶対有」にしろ、「絶対無」にしろ、通常の経験世界を超えています。そのため「絶対無」は、自然科学のような研究対象になり得ません。したがって検証不可能であり、自己による自己自身の実感・自覚に基づくしかないといえます。
なお、ホロニカル心理学では、「絶対無」を、“こころ”と考えています。“こころ”は、物質に対する精神とは異なります。むしろ“こころ”は、物質現象や精神現象を産み出すものであり、自己が自己自身の実感・自覚によるしか知られない根源的働きと考えています。
参考文献
西田幾多郎の思想,小坂国継.2002年.講談社.p59-60.