対話法で抑うつ状態から脱した善之さん(ノンフィクションフィクション)

※ノンフィクションフィクションとは、実際の複数の事例を組み合わせ、その本質を損なわないように再構成した架空の物語です。

AIで作成

<主な登場人物>
・善之(よしゆき):50代後半の男性である。離婚後、元妻と息子とは離れ、一人で暮らしている。家族という形は失われても、父親であること、元夫としての責任まで終わったとは思っていない。息子が社会人になるまでの養育費や教育費は毎月欠かさず支払ってきており、それは、善之さん自身にとって、息子とのつながりをかろうじて保っている細い糸でもあった。
・元妻:50代前半で、週4日のパート勤務を続けながら息子を支え、近隣に住む年金暮らしの高齢の両親の介護も担っている。
・息子:大学を卒業し、地元を離れて小さな会社に就職したものの6月頃から体調を崩し、精神科医師の勧奨もあって、ひとり暮らしのアパートで療養中であった。
・カウンセラー:心理相談室を運営する60代の女性。長年にわたりホロニカル・アプローチを学び、心理社会的支援の実践を重ねてきた。

<舞台>
心理相談室は、大都市の一角にある小さな心理相談室。部屋には向かい合う二脚の椅子と低いテーブルがあり、テーブルの上や棚には、フクロウ、オカリナ、小さな人形など、面接で使ういくつかの小物が置かれていた。小物たちは、普段なら何でもない物たちである。しかし、相談の場では、ときに人は、自分の内側だけでは抱えきれなくなった思いを、目の前にある小さな物に託すことがある。言葉にしようとすると逃げてしまう感覚や、互いに絡まり合って区別できなくなった思いが、物と物との「あいだ」に置かれたとき、あたかも命の息吹を得たように語り始めることがある。

<来室経緯>
善之さんがこの相談室を訪れるようになったのは、離婚後の一人暮らしが長くなり、抑うつ的な状態が強くなったことがきっかけだった。精神科クリニックを受診し、そこから心理相談室を紹介された。

<8月のある面接>
6月の面接で、善之さんは息子が会社を休職中していることを知っていた。そして8月の面接では、話の中心は自分のことよりも息子のことだった。元妻は眠れない夜を過ごしており、息子はちょっとした物音にも敏感になり、会社の人と一切会おうとせず、アパートの部屋に引きこもることが増えているという。「発達障害かもしれない」「何か病気なのではないか」と元妻は心配していた。しかし一方で、息子は週末には、大学時代の友人たちと麻雀をしたり競馬へ出かけることもあり、金欠状態になると、そのたびに元妻に仕送りを無心してくるとのことだった。生活のリズムも崩れ、昼夜も逆転していた。元妻から聴いた息子の話をしながら、善之さんの表情には苛立ちが浮かんでいった。
「何をやっているんだ、と思いますよ」と善之さんは言った。
息子を怒鳴りつけたい気持ちは確かにあった。しかし、その怒りはまっすぐ息子へ向かうことができなかった。怒りが強くなるほど、その奥から別の声が立ち上がってきたからである。
「お前が、それを言えるのか」
その内なる声の主が誰なのか、善之さんにはよくわかっていた。かつて、感情を爆発させて家族に怒りをぶつけていた自分だった。そのことが夫婦関係を壊し、離婚に至る大きな要因になったことも、善之さん自身が誰よりも知っていた。だから息子を責めようとすると、その言葉は途中で向きを変え、自分自身へ戻ってきた。
「息子がこうなったことには、自分の影響もあるんじゃないかと思うんです」
そして、しばらくしてから、
「見捨てられた、と思ってるんじゃないかって……」と続けた。その声からは、さっきまでの怒りが少し消えていた。怒りの奥には罪悪感があり、そのさらに奥には、善之さん自身が幼い頃から抱えてきた寂しさがあった。

善之さんはこれまでの面接でも、「両親はいつも喧嘩していました……家のなかに、安心して身を置ける場所がなかったんです」と何度となく語っていた。自分は両親から愛されていなかったのではないかという感覚は、長い時間をかけて善之さんのなかに沈殿していっていた。そして今、その記憶が、息子との関係を通して再び立ち上がってきていた。
親から自分へ、自分から妻へ、自分から息子へ、そして息子から再び自分へ。善之さんには、それらが一本の単純な因果関係としてではなく、幾重にも巡りながら互いを引き寄せる輪のように感じられていた。
親だけを悪者にはできず、自分だけを悪者にしても終わらない。妻だけでも、息子だけでもない。誰か一人を原因として切り離せない幾本もの見えない糸が絡まり合い、その中心で善之さん自身が身動きを取れなくなっていた。

善之さんは、ぽつりと言った。
「自分は、理想的な父親ではなかった」
しばらく間を置いて、
「理不尽な父親だったと思います」と続けた。
そして、
「息子からすれば……」と口にしたところで、言葉が止まった。相談室に沈黙が落ちた。

カウンセラーは、その沈黙を急いで埋めようとはしなかった。善之さんが黙っている時間のなかに、善之さん一人だけがいるのではないように感じられたからだった。幼い善之さんがいて、その父親と母親がいて、元妻がいて、息子がいる。そして、それらすべてとの関係を抱えながら、今ここに座っている善之さんがいた。

人は一人で相談室へやって来る。しかし、その人が生きてきた世界まで外に置いてくることはできない。一人の人間のなかには、それまで出会ってきた無数の他者との関係が幾重にも折り畳まれており、その人は、それらの関係が織りなす運命を背負っている。
カウンセラーには、善之さんの苦しみが二重・三重に感じられていた。過去の自分を許せない善之さんと、その過去の自分を許せないままでいる現在の自分に、さらに苦しんでいる善之さんである。責めている自分も苦しく、責められている過去の自分も苦しい。どちらか一方を正しいものにすれば、もう一方は切り捨てられてしまう。カウンセラーは、善之さんに「もう自分を許してもいいのではありませんか」と言うこともできた。しかし、そう言えば、「自分を許さなければならない」という新しい正しさを、善之さんのなかに持ち込むことになる。何か適切なことを言わなければならない、何かをしてあげなければならないという支援者側の焦りから少し離れ、今ここにあるものを善之さんと一緒に眺めてみようと思った。そうして二人のあいだに、同じ苦しみを少し離れたところからともに眺められるような感覚が生まれたとき、カウンセラーは棚の上にあるフクロウとオカリナに目をやった。

対話法の実施>
「ちょっと、これを使ってみてもいいですか」
カウンセラーは二つの小物を取り、テーブルの上に置いた。善之さんは黙ってそれを見た。
カウンセラーは、
オカリナを「過去の自分をまだ許せなくて、そのことで苦しんでいる善之さん」、
フクロウを「その苦しんでいる自分がいることを、今ここでわかっている善之さん」として置いた。

それまで善之さんの内側では、責める自分も、責められる自分も、区別のつかないまま一つに絡まっていた。しかし今、その二つがフクロウとオカリナという形を取って、目の前に置かれている。外在化という技法である。それだけのことだったが、自分から切り離してしまうのではなく、自分でありながら少し離れた場所から眺めることのできる距離が生まれた。

カウンセラーはフクロウを善之さんの前に、オカリナを自分の前に置いて、
「このフクロウから、過去のことで苦しんでいるオカリナに何かしてあげるとしたら、どんなことをしてあげますか」と尋ねた。

善之さんはしばらく二つの小物を見つめていたが、やがて、いつもの自己分析を始めた。
「自分は、人のせいばかりにしていたんです。僕の家は、両親が喧嘩ばかりしていて、幸せがなかった。自分は両親に好かれたことがなかった。だから寂しい気持ちを友人や他人に一方的に求めてばかりいて、相手の気持ちなんか何も考えていなかった」
善之さんは自分のことをよく理解していた。しかし、その理解は、自分を助けるためというより、自分を裁くために使われてきた。わかればわかるほど、自分を責める材料が増えていく。分析する自分と、分析される自分。裁く自分と、裁かれる自分。二つの自分の距離は、まだ遠かった。

カウンセラーは、その分析を止めなかった。ただ、もう一度、目の前の二つの小物へ善之さんを戻した。
「では、そのことをわかっている今の自分、このフクロウが、どうしても自分を許せないで苦しんでいるオカリナに何かしてあげるとしたら、どうしてあげますか」

善之さんは改めてフクロウを見つめ、少し考えてから、
フクロウ:「人のせいばかりにしてるんじゃない。大切なのは、自分の気持ちだから……」
まだ厳しい言葉ではあったが、先ほどまでの自己否定とは、どこか響きが違っていた。
カウンセラーは何も言わず、静かにフクロウとオカリナの位置を入れ替えた。ほんの数十センチ、小物がテーブルの上を移動しただけだった。しかし、それによって善之さんが世界を見る場所も変わった。先ほどまで語りかけていた側が、今度は語りかけられる側になる。
「では、オカリナは、フクロウからそう言われたら、どうしますか」
善之さんはオカリナを見た。その瞬間、表情が変わった。

オカリナ:「だって、しょうがないだろう。あれだけ辛い思いをしたことを、わかってるのは自分じゃないか。そのときは、そのときで生きていくしかなかったんだから。そうするしかなかったじゃないか!」
声に力が入った。それまで善之さんは、何度も過去の自分を責めてきた。しかし、過去の自分の側から声が返ってきたのは初めてだった。それは開き直りではなく、妻や息子を傷つけたことを正当化する言葉でもなかった。ただ、あのときの自分もまた、あのときの世界のなかで、生きていくことに必死だったのだと語る声だった。善之さんがこれまで裁いてきた過去の自分にも、その人なりの世界があった。両親の喧嘩のなかで育った子ども時代、愛されているという確かな感覚を持てなかった寂しさ、人との関係の結び方を十分に学ぶことのできなかった自分。もちろん、それによって家族を傷つけた責任が消えるわけではない。しかし、責任を引き受けることと、そのときの自分も必死に生きていたという事実を認めることとは、必ずしも互いを打ち消すものではなかった。

カウンセラーは再びフクロウとオカリナの位置を入れ替え、
「今、オカリナからそう言われて、フクロウはどうしますか」と尋ねた。

善之さんは黙って二つの小物を見比べた。しばらくして、肩の力がわずかに抜け、
フクロウ:「それは……そりゃ、その通りだなぁ」と言った。
その声からは、先ほどまでの硬さや刺々しさが少し消えていた。

正しいか、間違っているか。許せるか、許せないか。善之さんの世界は長いあいだ、その二つに引き裂かれていた。しかし、その「あいだ」に、ごく小さな隙間が生まれ始めていた。どちらかを消さなくても、二つが同時に存在していられる余白だった。

カウンセラーはもう一度、フクロウとオカリナの位置を替えた。今度はオカリナの番だった。善之さんは静かに、
オカリナ:「わかってくれればいい。過去の自分がいたから、今の自分がいるんだろうから」と言った。
その言葉は、相談室のなかにしばらく残った。善之さん自身が、自分の言った言葉を聞いていた。過去を否定する現在でもなく、現在から都合よく美化された過去でもない。過去の自分と現在の自分が、互いを消そうとせず、同じ一つの時間のなかに立っていた。

今度はフクロウが答えた。
フクロウ:「はい。確かに」と善之さんは微かに微笑んだ。

それだけだった。何か劇的なことが起きたわけではなかった。涙があふれたわけでもなく、過去が消えたわけでもない。元妻との関係が元に戻ったわけでも、息子の問題が解決したわけでもなかった。ただ、それまで敵同士のように向き合っていた自分が、初めて同じ場所に立っていた。善之さんのなかで、過去と現在が、ほんの一瞬、争うことをやめた。

カウンセラーもまた、その静けさのなかにいた。支援する者と支援される者、見る者と見られる者。その違いは消えていない。しかし、そのとき二人は、同じ出来事の前に立っていた。カウンセラーが善之さんを変えようとしているのでもなく、善之さんがカウンセラーの期待する答えを探しているのでもなかった。今ここに立ち顕れているものを、二人で見ていた。

テーブルの上には、一羽のフクロウと一つのオカリナが置かれていた。それだけの光景だった。しかし、その二つの「あいだ」には、ほんの少し前までなかった場所が生まれていた。

<その後>
この一回の面接によって、その後、善之さんの人生の問題がすべて解決したわけではない。息子は息子の人生を生きており、元妻には元妻の苦労があった。善之さんにも、自分で引き受けていかなければならない過去がある。何一つ、魔法のようには消えなかった。それでも、その後、善之さんと元妻との関係は少しずつ変わっていった。息子との関係も変わっていった。過去そのものをやり直すことはできないが、過去との関係は変わることがある。善之さんと元妻とのあいだにも、過去に起きたことを消すのではなく、それぞれが背負ってきたものを認めながら、長い時間をかけて傷を修復していくような関係が、少しずつ生まれていったのだった。

善之さんにとって大きかったのは、「過去の自分を許さなければならない」という新しい課題を与えられたことではなかった。許せない自分がいる。許してほしい自分もいる。息子に腹を立てる父親がいる。息子に申し訳ないと思っている父親もいる。そして、そのすべてが自分のなかにあることを知っている現在の自分がいる。それらのどれか一つだけを本当の自分に決めなくてもよい。そのような場所が、自分のなかに少しずつ生まれ始めたことだった。

「過去の自分がいたから、今の自分がいる」

あの日、自分の口から出たその言葉は、過去を免罪するためのものではなかった。責任を消す言葉でもない。過去にしたことを引き受けながら、それでも自分自身を自分の人生から追放しないための言葉だった。そこから善之さんの問いも少しずつ変わった。「正しい父親なら、どうするべきか」ではなく、「今の自分は、この息子とどのような関係をつくっていけるのだろう」と考えるようになった。そして、「元妻と、これからどのような関係をつくっていけるのだろう」とも考えるようになった。答えが簡単に出る問いではなかった。しかし、善之さんは、その問いを手放さなかった。過去を消すこともできず、未来の正解もわからない。それでも今ここで、自分と世界との関係を問いながら歩き続ける。そんな善之さんの姿が、カウンセラーには、いつしか虚無僧姿の修行僧のように見えるようになっていた。

<事例のもつ意味>
善之さんの苦悩を、「抑うつ状態にある一人の男性の心理」のなかだけに閉じ込めて理解することはできない。善之さんの現在には、幼少期の両親との関係があり、そのなかには安心して身を置けなかった家庭生活や、愛されているという実感を十分に持てなかった子ども時代がある。その経験は成人後の夫婦関係にも影響し、感情を爆発させて家族を傷つけ、離婚に至ったという歴史につながっている。そして、その過去を抱えた現在の善之さんが、今度は父親として、就労生活につまずいている息子と向き合っている。

さらにそこには、元妻の生活がある。パート勤務、高齢の両親の介護、息子への心配。息子自身にも、職場での生活、友人関係、経済問題、生活リズムの乱れといった固有の世界がある。そのさらに外側には、「良い父親でなければならない」「子どもは大学を卒業すべきだ」「自立しなければならない」「離婚しても父親として責任を果たさなければならない」といった、社会や文化によって形成されてきた価値基準も存在している。したがって、善之さんの“こころ”は、善之さんという一個人の内部だけに存在していたのではない。親子、夫婦、家族、大学、医療、社会、文化、そして過去から現在へと流れる時間。それらが互いを映し合いながら、善之さんの現在を形づくっていた。

華厳思想因陀羅網の譬えを借りれば、一つひとつの珠の表面に他のすべての珠が映り、その映された珠のなかに、さらに他の珠が映り込んでいるような関係である。善之さんのなかには息子がいる。息子との関係のなかには父親としての善之さんがいる。その善之さんのなかには、かつて両親との関係に傷ついていた子どもの善之さんがいる。そして、その過去の善之さんを、現在の善之さんが見ている。その現在の善之さんとカウンセラーとの「あいだ」にも、新しい関係が生まれている。

過去は、過ぎ去ったから消えたのではない。現在の自己と世界との関係のなかに、多層多次元的に折り畳まれながら、今も生きている。ホロニカル心理学では、自己と世界もまた、このような縁起的・相互包摂的な関係にあると考える。一つの関係が変われば、それに連なる他の関係もまた、以前とは違った姿を見せ始める。この事例で用いられたフクロウとオカリナによる対話法は、単に「自分の気持ちを客観視する」ための技法ではない。善之さんの内的世界のなかで一体化し、互いに争っていた対象関係をいったん目の前に外在化し、異なる位置から眺め直すことによって、それまでとは異なる自己と世界との関係が創発するための「」をつくる試みである。

カウンセラーは、善之さんに「自分を許しましょう」と教えてはいない。過去の原因を確定したわけでもなければ、善之さんの考え方を修正しようとしたのでもない。むしろ、善之さんと同じ場にとどまり、自分自身の内側に生じている感覚を確かめながら、「今なら、二人で同じものを見ることができるかもしれない」という実感が生まれたところから、二つの小物を差し出した。
ここに、ホロニカル・アプローチの支援の特徴がある。支援者は被支援者の外側から、正しい理論や技法を操作する者ではない。支援者自身もまた、その場に参与する一人として、被支援者との関係のなかにいる。善之さんが過去の自分を見直していくとき、カウンセラーもまた、善之さんを単に「抑うつ状態にある被支援者」として見る位置から離れ、一人の人間が自分の人生と出あい直している場に、ともに立つ者となっていた。

ホロニカル心理学でいう「自己と世界の一致」とは、世界が自分の思い通りになることではない。過去が正しいと肯定されることでも、苦しみが消えることでもない。善之さんの場合、それまで「こんな自分であってはならない」と責める現在の自己と、「そうするしかなかった」と訴える過去の自己とが、互いを排除し合っていた。その二つの「あいだ」に、ごく短い時間ではあったが、争わなくてもよい場所が生まれた。

自己が自己であり、世界が世界でありながら、その両者のあいだにあった抗いが一瞬ほどけ、切り離しがたい一つの出来事として立ち顕れる。そのとき、善之さんだけが何かを体験していたのではなかった。カウンセラーもまた、その静けさを同じ場で実感していた。支援者と被支援者という違いを保ちながらも、二人の「あいだ」に、それまでにはなかった共感的な関係が創発していたのである。

善之さんの場合、その変化は大きな出来事として現れたのではない。「それは……そりゃ、その通りだなぁ」という一言が生まれ、「過去の自分がいたから、今の自分がいる」という言葉が生まれただけだった。しかし、その小さな変化のなかには、それまで善之さんを縛っていた自己否定の循環とは異なる、新しい人生の道筋がすでに芽生えていた。

心理社会的支援とは、人生から苦悩を取り除くことではない。自分では変えることのできない出来事を含む世界と、これからどのような関係を結び直して生きていくのか。その可能性を、安全で安心できる「場」のなかで、被支援者と支援者がともに俯瞰し、ともに発見し、ともに創造しながら、少しでも生きやすい人生の道を共創していく営みといえるのである。