怒りは、暴力なのだろうか?

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<怒りを前にして>
支援の現場にいると、ときどき、激しい怒りに出あうことがあります。相手を責める言葉になって表れる怒りもあれば、長いあいだ押し殺され、ある日突然、噴き出す怒りもあります。その前に立つと、私は今でも戸惑います。

怒りは怖いものです。人と人との関係を壊してしまうこともあります。けれども、怒りは、なくしてしまえばよいものなのでしょうか。長く考えてきましたが、どうも、そうではないように思うのです。

< 怒りは、本当に悪いものなのか>
人は、不当に扱われたとき、差別されたとき、大切なものを踏みにじられたときに怒ります。その怒りは、ただ感情が高ぶっているだけではありません。

「これはおかしい」
「これ以上は耐えられない」
「人間として扱ってほしい」

そんな、まだ十分に言葉になっていない訴えが、怒りの奥に隠れていることがあります。

ホロニカル心理学の立場から見ると、怒りは、その人の内側だけに発生するものではありません。その人と家族、その人と組織、その人と社会との間に生じた出来事でもあります。ときには、本人が抱え込んでいる怒りのなかに、その場全体の矛盾が凝縮されているように感じることさえあります。そう考えると、怒っている人だけを「問題のある人」として扱うことには、ためらいを覚えます。その怒りは、その人だけの問題ではなく、周囲が見ようとしてこなかった何かを、代わりに表しているのかもしれないからです。

実際、社会のなかで長く隠されてきた差別や抑圧が明るみに出るとき、その背後には、たいてい誰かの切実な怒りがありました。怒りがあったからこそ、変わった社会もあります。そう思うと、怒りには、破壊的な面だけでなく、人間の尊厳を守り、社会を動かしていく力もあるのではないでしょうか。だから私は、怒りそのものを否定したくはありません。

正当な怒りまで抑え込んでしまえば、人は異議を申し立てる言葉を失っていきます。何かがおかしいと思っても、黙って従うしかない。そんな社会は、一見静かに見えても、ほんとうに平和だとは言えないように思います。

ただ、ここで立ち止まらなければなりません。怒りが正しいからといって、その怒りから生まれる行為まで、すべて正しいとは限らないからです。怒りと暴力は、やはり分けて考える必要があります。

<傷つけられた人が、誰かを傷つけるとき>
他者を威嚇したり、否定したり、力によって従わせようとする人の話を丁寧に聴いていると、その人自身も、深く傷つけられてきたことが少なくありません。

「自分は傷つけられた」
「自分は不当に扱われた」
「だから、これくらいしても許される」

本人のなかでは、そのような思いが切実な現実になっているのでしょう。実際に、深刻な被害を受けてきた人もいます。その傷つきは軽く扱われてはなりませんし、十分に理解され、支えられる必要があります。それでも、被害を受けたことと、別の誰かを傷つけることとは、同じ問題ではありません。私はやはり、加害者性は、被害者性によって免責されることはなく、償いが大切ことには変わりがないと考えます。

被害を受けた人が、いつでも被害者の位置だけにいるわけではありません。ある関係では傷つけられ、別の関係では誰かを傷つけてしまう。反対に、加害行為をした人のなかにも、傷つけられてきた歴史があるかもしれません。人は「被害者」と「加害者」という二つの箱に、きれいに分けられるものではないのでしょう。だからといって、すべてを曖昧にしてよいわけでもありません。

傷つけられてきた経験は、理解されなければならない。けれども、いま目の前で起きている加害行為は、止めなければならない。その両方を見ることが必要なのだと思います。被害者性でもって加害性を正当化する主張は、結果的に悲惨な結果しかうまないのではないかと疑問を投げかけ脱価値化していく対話が必要になると思われます。

暴力が問題なのは、相手の安全や尊厳を傷つけ、自由に応答する余地を奪い、恐怖によって変化や服従を強いるからです。暴力ばかりではなく、威圧・威嚇・否定など、パワーによって問題を解決することが問題なのです。パワーによる問題解決には、相手は対話する存在ではなく、従わせる対象になっています。それが被害性からくる怒りからであっても、パワーによる問題解決は、加害性の責任を取るべき行為とみなす必要があると考えられるのです。

<「自分は正しい」と思うときほど>
怒りと暴力を混同すると、人は不思議なほど簡単に、熱狂のなかへ巻き込まれていきます。

「自分は正しい側にいる」
「正義のために戦っている」

そう確信した瞬間、自分自身の暴力性が見えなくなることがあります。これは、どこか遠くの誰かだけに起きることではないと思います。私自身も、自分の考えが正しいと思っているときほど、相手の言葉を聴けなくなっていないか、相手をこちらの考えに従わせようとしていないか、と立ち止まる必要を感じます。

「正義のための暴力」
「被害を受けた者による報復」
「平和を実現するための戦争」

こうした矛盾した言葉が、いつの時代にも繰り返されてきました。怒りは理解されなければならない。けれども、怒りを理解することと、その人の暴力を認めることは違います。この区別は、簡単なようで、実際にはとても難しいものです。だからこそ、何度でも確かめ直さなければならないのだと思います。

<対話は、きれいごとではない>
では、怒りを暴力に変えないために、私たちには何ができるのでしょうか。私は、そこに対話の可能性があると思っています。ただ、「どんなときでも話し合えば分かり合える」と言いたいわけではありません。暴力が現に行われているとき、最初に必要なのは対話ではなく、安全の確保です。

拒否すること。
距離を取ること。
その場から逃げること。
第三者や制度に助けを求めること。それらもまた、大切な選択です。被害を受けている人に対話や和解を求めるなら、それ自体が新たな暴力になってしまうことがあります。対話には、安全と境界が必要です。力の差にも目を向けなければなりません。

安全という土台があって、ようやく対話を始めることができます。

ホロニカル心理学では、対話とは、一方が他方を説得し、自分と同じ考えに変えることではでないと考えています。

AがBを支配しようとするとき、AはBを「A化」しようとします。反対に、BがAを支配しようとするとき、BはAを「B化」しようとします。そこでは、どちらかが勝ち、どちらかが自分を失います。これは対話ではなく、ただの対立的な会話です。

対話が始まるのは、互いを変えようとする前に、二人の間で何が起きているのかを、ともに見つめようとしたときではないでしょうか。怒りや対立を、どちらか一方の人格の問題にしない。二人の間に生じた出来事として、いったん外に置いてみる。すると、A対Bだった関係が、少し変わります。

AとBが、互いをにらみ合うのではなく、二人の間に置かれた出来事を一緒に眺めることができるようになるからです。そこから、AはBとの出あいによって、それまでとは少し違うA’になります。Bもまた、Aとの出あいによって、少し違うB’になっていきます。そして二人の間に、どちらか一方の考えでも、単なる妥協案でもない、もう一つの見方Cが立ち顕れてくることがあります。

私は、そのようなこれまでとは違うCを創発する場を「共創的俯瞰の場」と考えています。Cは、AとBの外側にある第三の実体ではありません。AとB、それぞれの体験、二人の関係、その周囲にある家族や組織、制度や歴史までを含めて、出来事全体をともに俯瞰できる立場がCです。AとBが互いを変えようとする関係から少し離れ、両者の間で起きている出来事をともに見渡せるポジションがCです。そのCを共有することによって開かれるのが、「共創的俯瞰の場」です。そこから、これまでにはなかった新しい意味や選択肢が立ち顕れてくることがあります。

その俯瞰が深まると、観察する側と観察される側、自分と相手との境界がふっとゆるみ、観察主体が出来事そのものになるような瞬間もあります。そのような無我に近い直接体験(ホロニカル体験)も、Cに含まれています。

その瞬間に、これまで見えなかった意味や、思いもしなかった選択肢が生まれることがあります。対話には、そのような不思議さがあります。

<分かり合えないまま、ともにいる>
私たちは、対話をすると、最後には意見が一致しなければならないと思いがちです。けれども、本当にそうなのでしょうか。

賛成か反対か。
味方か敵か。
正しいか間違っているか。

そのどちらかに決めなければ落ち着かないことがあります。違いが残ることに、私たちは案外、耐えにくいのかもしれません。けれども、対話とは、違いを消すことではないように思います。

分かり合えないところを、分かり合えないまま残しておく。急いで結論を出さず、その間に少し余白をつくる。その余白があるから、人は考え続けることができます。相手の言葉が、あとになって違う意味で聞こえてくることもあります。

不一致を保持する力。

それは、多様な人々がともに生きるために、私たちが身につけなければならない大切な力ではないでしょうか。

もちろん、不一致を保持することは、暴力を黙って見過ごすことではありません。他者の安全や尊厳を奪う行為まで、「それも一つの価値観です」と受け入れることではないのです。どこまでは違いとして抱えられるのか。どこからは、はっきりと「それは許されない」と境界を示す必要があるのか。

その答えは、いつも同じではないでしょう。

だからこそ、その都度、立ち止まり、ともに考え続けるしかないのだと思います。私たちが目指すのは、怒りを感じない社会ではありません。怒りを感じても、何も言えない社会でもありません。怒りを言葉にし、異議を申し立てる自由を守りながら、その怒りを理由として、他者の安全や尊厳を奪わない社会です。

怒りを、すぐに暴力へと向かわせないこと。

その怒りが何を知らせているのかを見つめ、異議申し立てや社会を変える力へとひらいていくこと。対立のただなかで、支配でも服従でもない、もう一つの関係を探し続けること。しかも、すぐに完成する答えもありません。それでも、その困難な余白のなかにこそ、多様な価値観をもつ人々が、ともに生きていく可能性が残されているのではないでしょうか。