周辺なき無限の円

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「周辺なき無限の円」は、ホロニカル論における「どの存在も、世界の全体から切り離されず、それぞれの場所から世界が立ち顕れる」という関係を考えるうえで、示唆に富むメタファーです。とりわけ、「周辺がない」ことと「いたるところが中心となる」ことを、併せて捉えることが重要だと思います。

この比喩に近い表現として、パスカルは『パンセ』で、「中心が至ところにあり、円周がどこにもない無限の球」について語っています。そこには、人間が自分の認識によって自然の全体を捉え尽くすことの困難さが示されています。また、西田幾多郎も『私と汝』において、周辺なき円の比喩を用いて、私と汝の関係を論じています「周辺なくして至るところが中心となる無限の円」が、「私と汝の関係」を考える重要な表現として取り上げられています。ただし、同じ比喩でも、その意味は思想家や文脈によって異なります。

以下は、こうした比喩をホロニカル論の立場から読み直す試みです。

まず、普通の円には、中心と円周があり、内側と外側が区別されます。そのため、私たちは円の外に立ち、その全体を一つの対象として眺めることができます。しかし、周辺なき無限の円では、その全体を外側から囲い込むことができません。これをホロニカル論に重ねると、世界を観察している自己も、観察される世界とともに、その出来事に参与していることが見えてきます。

この点は、ホロニカル論における「俯瞰」を考えるうえでも重要です。俯瞰する働きもまた、自己と世界との関係の中に生起します。したがって、俯瞰が深まるとは、世界の外にある絶対的な観察席に到達することではありません。自分が何を見ており、何を見落としているか、自分の見方が相手との関係をどう変えているかにも気づき、視座を自由に往還できるようになることだと考えられます。さらに、観る自己と観られる世界との隔たりが薄れ、出来事そのものとして生きられる無我相も、この射程に含まれます。

次に、「至るところが中心となる」とは、それぞれの存在が、その場所から世界が立ち顕れる、かけがえのない中心となると理解することができます。

私たちの一挙手一投足には、身体の状態、これまでの出あい、家族関係、言語、文化、時代の状況などが折り込まれています。そして、その一挙手一投足が相手に届くことで、相手との関係や、その後の出来事も変わります。個は全体の働きによって成立するとともに、全体のあり方を変えていく働きを担っていると思われるのです。

ここに、華厳思想の「一即多・多即一」とホロニカル論の接点があります。個々と全体との相互包摂という観点が相似的といえるのです。 ただし、相互包摂を「一人の中に、世界のあらゆる情報が完全に収まっている」と理解すると、個の有限性が見えなくなります。むしろ、それぞれの存在には、その存在を成立させる世界との関係が折り込まれている、と捉えるほうが適切でしょう。誰も全体を所有できませんが、誰も全体から切り離されてはいないのです。

さらに、この円をホロニカル論に即して考えるなら、時間的な生成を加える必要があります。静止した円のイメージだけでは、あらかじめ完成した全体の中に、個々の存在が配置されているように見えるからです。ホロニカル論では、一瞬・一瞬の一なる出来事が、多層多次元の現象として立ち顕れると捉えます。その観点からすれば、中心も、中心どうしの関係も、そのつど生成しています。自己と世界が出あうところに、その瞬間の中心が生まれるのです。“こころ”もまた、そのような自己と世界の同時生成の場の働きとして理解できます。

こうした出来事の読み解き方は、心理社会的支援にもつながります。たとえば、一人の子どもの行動を理解するとき、その子の体験を中心に据えてみる。次には、保護者、支援者、学校、地域の位置から、その出来事を見直してみる。すると、同じ出来事でも、異なる苦悩や願い、制約が立ち顕れます。支援者には、それぞれの中心に近づきながら、それらがどう関係し合っているかを、ともに俯瞰する働きが求められます。

ここで大切なのは、視座の多様性を尊重することと、すべての判断や行動を同等に認めることを区別することです。各人の体験の固有性を尊重しながら、事実の確認、安全の確保、行為への責任を具体的に検討する必要があります。また、周辺なき円という比喩から、生活上の境界までなくすべきだとは導けません。距離を取ることや役割を明確にすることが、互いを尊重できる関係を支える場合もあります。

なお、「周辺なき無限の円」は、あくまで哲学的なメタファーです。その価値は、自己と世界、個と全体との関係を問い直すことにあります。この比喩に触れると、自分の場所から見える世界を大切にしながら、相手の場所からひらかれる世界にも出あってみたいと思います。その出あいの中で、自分も相手も、ともに生きる場も、新たになっていくのではないでしょうか。そして、そうした重ね合いの出あいによって、自分も相手も、両者が生きる場も、少しずつ新たになっていくことを可能にすると考えています。