
自己と世界との出あいを直接体験と捉えるとき、その同じ出来事は、物理現象として記述することも、意識現象として記述することもできます。ホロニカル論では、この二つを、互いに独立した別個の実体や、あらかじめ分けられた二つの側面として理解するのではなく、同一の直接体験に対する異なる記述のあり方として捉え直します。すなわち、心身二元論的な心理主義的なこれまでの心理学と異なり、非二元論的な身心一如の心理学の立場をとります。
また、一瞬・一瞬に生じる意識現象は、それ単独で成立しているわけではありません。そこには、過去から積み重ねられてきた経験や記憶、身体の状態、周囲の人々との関係、環境の変化など、多層多次元にわたる無数の出来事が関わっています。過去の経験も、記憶や身体の構え、物事の受け止め方などとして、現在の体験に働いています。
したがって、一つの体験には、それを成立させている多様な関係が織り込まれていると考えられます。ホロニカル論でいう「包摂」とは、他の現象が一つの意識の内部にそのまま収められているという意味ではありません。自己が世界の中で生きると同時に、世界との無数の関係が、自己の一瞬・一瞬の体験に立ち顕れていることを意味します。
こうした直接体験は、言葉や概念によって区別し、整理することができます。しかし、区別したそれぞれを、互いに無関係なものとして切り離すことはできません。また、どれほど詳しく言葉にしても、その体験の全体を余すところなく捉え切ることはできません。
例えば、私たちが「怒った」と感じるとき、そこには怒りだけがあるとは限りません。不安や悲しみ、戸惑い、「わかってほしい」という期待、過去の記憶などが重なっていることがあります。胸の高鳴りや身体のこわばり、頭に浮かぶ言葉、相手の表情や声、その場の雰囲気なども、その体験の成立に関わっています。この同じ出来事は、身体や神経系の働きに着目して記述することもできます。
私たちが「怒り」と呼ぶのは、こうした複雑な出来事の中から、ある特徴に着目して名づけたものです。名づけることは、自分の状態を理解し、他者と共有するために役立ちます。しかし、「これは怒りだ」と理解したところで立ち止まると、その言葉では捉え切れない体験を見失うことがあります。
例えば、「自分は怒っている」と気づいたあとで、その体験を丁寧に確かめてみると、「大切にされなかったようで悲しい」「また傷つくのが怖い」と感じていることに気づくかもしれません。相手とのやり取りや、その場の状況に目を向けることで、怒りが強まった経緯も見えてきます。そこから、自分の気持ちを伝える、少し距離を取る、周囲に助けを求めるなど、関わり方の選択肢が広がります。
ホロニカル論が大切にするのは、言葉や概念を活用しながらも、それだけで理解を終えず、自己と世界との出あいとして生じている直接体験に立ち戻ることです。「何と名づけられるか」とともに、「今・ここで、実際に何が起きているのか」を丁寧に確かめていきます。“こころ”と向き合うとは、こうした営みのことと考えられます。
怒りは、独立して存在する実体ではなく、自己と世界との出あいの全体の中にある出来事として立ち顕れ、私たちによって「怒り」と意味づけられた現象といえます。ホロニカル心理学は、個々の感情や身体の働きに目を向けながら、それらが成立する関係の全体を見失わずに理解しようとします。そして、一瞬・一瞬に変容する自己と世界との関係に気づきながら、より自然で無理のない生き方を探究していきます。自己と世界との出あいを直接体験と捉えるとき、その同じ出来事は、物理現象として記述することも、意識現象として記述することもできます。ホロニカル論では、この二つを、互いに独立した別個の実体や、あらかじめ分けられた二つの側面として理解するのではなく、同一の直接体験に対する異なる記述のあり方として捉えます。
また、一瞬・一瞬に生じる意識現象は、それ単独で成立しているわけではありません。そこには、過去から積み重ねられてきた経験や記憶、身体の状態、周囲の人々との関係、環境の変化など、多層多次元にわたる無数の出来事が関わっています。過去の経験も、記憶や身体の構え、物事の受け止め方などとして、現在の体験に働いています。
したがって、一つの体験には、それを成立させている多様な関係が織り込まれていると考えられます。ホロニカル論でいう「包摂」とは、他の現象が一つの意識の内部にそのまま収められているという意味ではありません。自己が世界の中で生きると同時に、世界との無数の関係が、一瞬・一瞬の自己の体験として立ち顕れていることを意味します。
こうした直接体験は、言葉や概念によって区別し、整理することができます。しかし、区別したそれぞれを、互いに無関係なものとして切り離すことはできません。また、どれほど詳しく言葉にしても、その体験の全体を余すところなく捉え切ることはできません。
例えば、私たちが「怒った」と感じるとき、そこには怒りだけがあるとは限りません。不安や悲しみ、戸惑い、「わかってほしい」という期待、過去の記憶などが重なっていることがあります。胸の高鳴りや身体のこわばり、頭に浮かぶ言葉、相手の表情や声、その場の雰囲気なども、その体験の成立に関わっています。この同じ出来事は、身体や神経系の働きに着目して記述することもできます。
私たちが「怒り」と呼ぶのは、こうした複雑な出来事の中から、ある特徴に着目して名づけたものです。名づけることは、自分の状態を理解し、他者と共有するために役立ちます。しかし、「これは怒りだ」と理解したところで立ち止まると、その言葉では捉え切れない体験を見失うことがあります。
例えば、「自分は怒っている」と気づいたあとで、その体験を丁寧に確かめてみると、「大切にされなかったようで悲しい」「また傷つくのが怖い」と感じていることに気づくかもしれません。相手とのやり取りや、その場の状況に目を向けることで、怒りが強まった経緯も見えてきます。そこから、自分の気持ちを伝える、少し距離を取る、周囲に助けを求めるなど、関わり方の選択肢が広がります。
ホロニカル論が大切にするのは、言葉や概念を活用しながらも、それだけで理解を終えず、自己と世界との出あいとして生じている直接体験に立ち戻ることです。「何と名づけられるか」とともに、「今・ここ」で、実際に何が起きているのかを丁寧に確かめていきます。“こころ”と向き合うとは、こうした営みのことと考えられます。
怒りは、独立して存在する実体ではなく、自己と世界との出あいの全体の中にある出来事として立ち顕れ、私たちによって「怒り」と意味づけられた現象といえます。ホロニカル心理学は、個々の感情や身体の働きに目を向けながら、それらが成立する関係の全体を見失わずに理解しようとします。そして、一瞬・一瞬に変容する自己と世界との関係に気づきながら、より自然で無理のない生き方を探究していきます。