自己とは場所的存在です。そこで自己のことを場所的自己と言い換えることができます。
場所的自己は、自己と世界の出あいの場において生成と消滅を絶え間なく繰り返しています。自己の身体を形成する細胞は刻々と入れ替わっているのです。
生成と消滅の関係が、生成>消滅の関係にある限りにおいて、場所的自己は身体的自己として生き続けることができます。しかしながら生成<消滅という関係になると身体的自己は自己と共に自己と世界の出あいの場そのものに取り込まれていきます。場所的自己の死とは、場そのものになることにほかなりません。この時、場とは、すべての現象や万物が生成・消滅してくるところであり、「絶対無」「空」「0=∞」と呼ばれるゼロ・ポイントのことです。“こころ”を含め,森羅万象は,ゼロ・ポイントから立ち顕れてくると考えられます。
場所的自己における自己と世界の出あいの直接体験を直覚したり認識・識別する主体が「我」です。ホロニカル心理学では、現実主体(内我・外我)と概念化しているものです。
しかしながら厳密にいうと「我」という意識は、自己と世界の出あいの不一致・一致によるゆらぎ(直接体験)の瞬間・瞬間を実感・自覚する時に成立する機能のことにほかなりません。直接体験を実感・自覚していない瞬間は、「我」という意識は無心ですから、我(現実主体)は無といえます。宮沢賢治が指摘したように、「我」とは、蛍光灯のようなもので、刻々点滅する機能のようなものといえます。普段、私たちは、「我」があたかもあるかのように思い込んでいますが、それは、アニメーションのようなもので、本来は非連続的なものが連続すると、そこにあたかも「在る」かのように錯覚しているだけであって、厳密には「在る」のは場所的自己であって、「我(現実主体)」は、どこかに実体としてあるようなものではないのです。
場所的自己を直覚的に意識する中心に、発達論的には内我が先行して成立してきます。「我(現実主体」という意識の中心点が成立すると、その後、やがて発達とともに自己や世界を観察対象とする「現実主体(外我)」が観察主体として成立するようになります。
しかしながら、外我にしろ内我にしろ現実主体は直接体験そのものではありません。あくまで直接体験を近似的に意識化することしかできません。むしろ現実主体が観察主体となった途端、観察対象となる自己自身や世界との関係の断絶を免れることが不可能となるからです。場所的自己の直接体験を現実主体は、あるがままに把握することはできないのです。現実主体が無とならぬ限り、場所的自己と現実主体には不一致が必ず生じるのです。
場所的自己は、自己と世界の出会いの不一致一致の度に、その都度その都度、現実主体を解体し、場所的自己に再統合し、また新たな現実主体を非連続的に生成し続けようとします。
場所的自己は、自己と世界の不一致・一致の対立・矛盾が同一に実在するところに成立しているのです。
東洋は、古来、現実主体(我)を無とすることによって場所的自己そのものとなる境地に救済や悟りを求め続けてきたと思われます。適切な生き方の自己照合を場所的自己に求めてきたといえます。
※宮沢賢治:「春と修羅」の序に次の文章があります。
「わたくしといふ現象は仮定された有機交流電燈のひとつの青い照明です(あらゆる透明な幽霊の複合体)風景やみんなといつしよにせはしくせはしく明滅しながらいかにもたしかにともりつづける因果交流電燈のひとつの青い照明です(ひかりはたもち その電燈は失はれ)。