「IT(それ)」(2):絶対的主体

自己自己組織化の適切な自発自展を促進しようとする時、自己と世界を自由無礙に俯瞰する観察主体の成立が必要となります。自由無礙に俯瞰する観察主体とは、現実主体(我:外我・内我を含む)を超越する主体であり、内的世界と外的世界の全総覧者であり,全統覚者であり、自己と世界の出あいの不一致・一致直接体験を包み、すべてを統一する窮極的な意志をもった絶対的主体といえます。ホロニカル心理学でいう「IT」にあたります。

「IT」は、宇宙のような絶対有の世界、絶対有の世界を構成する「物」とか「意識」のような相対有・相対無など、すべての万物・出来事を総覧し統覚し包摂します。

ところで絶対有、相対有・相対無を創り出すものとは、自らが自らの否定のうちに絶対有、相対有無の万物や出来事を創り出すものでなくてはなりません。自らが自らの否定のうちに絶対有、相対有無の万物や出来事を創り出す窮極のものとは、「絶対無」しかありえません。仏教でいう「空」や「意識と存在の0ポイント」(井筒俊彦、1993)のことです。ビッグ・バン前です。この時、「IT」とは、「絶対無」が「絶対無自身」を自由無礙に俯瞰する時の観察主体と考えられます。「絶対無」と「IT」をめぐる何らかの“ゆらぎ”が、無から万物やあらゆる出来事を創りだし、「IT」がそれを一として包み見込んでいると考えられるのです。

自己も「絶対無」の“ゆらぎ”から創り出されています。自己を創り出した「絶対無」が、自己、現実主体を含み、自己を超越する主体(「IT」)となり、内的世界と外的世界の全総覧者・全統覚者となって、直接体験を包み、すべてを統一する窮極的な意志をもった絶対的主体となっていると考えられるのです。

通常、現実主体はホロニカル主体(理)を内在化しています。しかしながら歴史や文化や言語の影響を受けているホロニカル主体(理)を、自己と世界の本来の一致に向けて脱統合していくと窮極的には「IT」に至ります。もともと言詮不及の「IT」の言語的に分化し自発自展したものホロニカル主体(理)を形成していると考えられるので、ある意味で当然のことといえます。ただし歴史や文化の影響を脱統合するといっても語ることが及ばないものを語ることになるという矛盾を避けることができません。「IT」について何かを語った瞬間、それは歴史や文化の影響を受けたホロニカル主体(理)からの理解であって、「IT」そのものではなくなるからです。

しかし「IT」について語ることを一切止めて、ただあるがままにすべてを総覧・統覚することができれば、その瞬間、自己は「IT」となることができます。一度「IT」に目覚めると、「IT」との自己照合によって不適切なホロニカル主体(理)は解体され、「IT」と一致する適切なホロニカル主体(理)のみが、「IT」に統合され続けていくよう自発自展的な展開となります。