他律的内的現実主体(1):外界や外我に対して受動的姿勢な内我

ホロニカル心理学では、自己と世界の出あいのさまざまな直接体験の各断片を、同一の身体的自己における出来事として直覚し、それらを全一体験として統合していく主体のことを、内我(内的現実主体)と定義してきました。

ところが、昨今、その内的現実主体が、直接体験を直覚する方向に向かわず、外界や外我を志向するタイプが増加してきてしまいました。こうした人は、自分の直接体験の実感・自覚が弱く、内我が外界や外我に対して受動的姿勢をととっているのが特徴です。そこで、こうした内我の特徴をもつ場合を、「他律的内的現実主体」と見立てることにしました。

内我が他律的現実主体の人は、失感情的で、能面で、どことなく離人的です。自己が地に足がついていないかのような言動です。最近のエピジェネティクスの研究が明らかにするように環境と遺伝が複雑に絡み合って内我の形成にも影響してきたことによって登場してきたタイプかも知れません。

内我が、通常の内的現実主体なのか、それとも他律的内的現実主体なのかの違いは、人生の歩み方に大きな違いをもたらします。

他律的内的現実主体は、衝動、欲動、欲求、食欲や身体運動感覚に対する直覚が極めて脆弱で、直接体験そのものを直覚するよりも、むしろ観察対象として、外我と一体となって知的・理性的に分析しようとする態度をとります。また他律的内的現実主体は、むしろ内的な衝動・欲動・欲求、食欲や身体運動感覚の出現を恐れその動きをできるだけ禁止したり、動きそのものをないものにしようとします。その結果、感じることよりも、考えてばかりの生き方になります。そして人生は、「自己も世界も生命力のない無機質な物的なもの」となる傾向にあります。

また、人とのコミュニケーションにおけるやりとりも、をお互いの身体的自己の直接体験を媒介にして共有することができず、情緒的な交流や共鳴的関係を形成しにくくなり、親密な対人関係や場になじめないという問題をつくりだしていきます。

しかし、ホロニカル・アプローチの実践現場で遭遇する限りにおいては、こうした人々の自己の底には、これまで否認したり、切り離してきた絶叫したくなるような感覚が蓄積されているのも事実です。したがって、転機は、絶叫を抱えている自己の直接体験を実感・自覚するところから訪れます。しかし、莫大なエネルギーをため込んでいる絶叫の実感は、一歩間違うと内我や外我を破壊しかねません。絶叫の実感と自覚の作業は、核汚染された原子炉の廃炉作業にも似た慎重さが必要になります。しかし、慎重に扱っていくと、少しずつ感情が豊になり、生きている自分を実感・自覚しはじめることができます。