直接体験(3):自己照合の基準

下小鳥ダム

ホロニカル心理学では、「自己」と、「自己と世界の出あいの直接体験」との自己照合をより生きやすい人生の発見・創造の手がかりとして重視します。

「自己と世界の出あいの直接体験」とは、一瞬・一瞬、絶え間なく生成消滅を繰り返している「今・ここ」という自己と世界を含む出来事のすべてのことです。一見、頑丈で不変的にみえるあらゆる物質もいずれ解体していきます。いや、物質を構成するミクロの次元である素粒子のレベルでは、素粒子すら、絶えず流動的に変化している無常の世界であることが現代物理学で明らかにされてきています。そして私もあなたも、絶えず、新陳代謝によって古い細胞が死滅し新しい細胞が生成されているのです。

したがって、自己による自己照合とは、観察主体となる自己と、観察対象となる内的世及び外的世界のミクロからマクロにわたる時々刻々と変化する世界との自己照合作業ということになります。

この時、観察主体は、自己自身も観察対象とすることが多いため、ホロニカル心理学では、観察主体となる自己を、「我(現実主体)」と概念化し区別し、自己全体そのものと混同する混乱を避けます。我(現実主体)は、適切に自己を発達させた場合、外我と内我に機能分化すると考えています(定森、2015年)。

観察主体としての外我と内我の働きは異なります。外我は、外我が内在化している理(ホロニカル主体)によって、直接体験の識別・分別による分析とその再構成を図るという作業にもっぱら専念します。それに対して、内我は、直接体験そのものをできるだけより全包括的に直覚する作業に専念しようとします。

自己による自己照合作業は、観察主体である我(現実主体)と観察対象である自己自身の直接体験との自己照合のことであり、それは自己の内的世界においては、外我による認識行為と内我による直覚との間の自己照合作業というパターンに変換できます。

そのため、外我と内我の関係が不一致になった刹那、自己と世界は分断され不一致となり、直接体験は矛盾・対立に揺らぎます。不一致に対して、外我と内我が合一し、かつ「我(現実主体)」の働きが自ずと一切停止し、あらゆる観察主体の働きが忘我奪魂して「無我」となった刹那、自己と世界は一致し、すべては直接体験(ホロニカル体験)そのものになります。ホロニカル体験では、善も悪も、美も醜も、自己も世界も、意識も無意識も、すべての境界が無境界になって、すべてが、ただあるがままとなります。その瞬間、あるがままという全総覧的観照者自身が、あるがままの世界と「一」となります。

結局、自己照合作業とは、自己の不一致と一致の直接体験と自己自身の照合作業といえます。重要な流れと手がかりを整理すると次のようになります。

1.外我と内我の一致が、次の「2」をもたらす。
2.観察主体(自己)と観察対象(自己と世界を含む自己自身の直接体験)との一致が、次の「3」をもたらす。
3.自己と世界の一致の直接体験が、自己と世界の関係が不一致になった時の、より生きやすい人生の道の発見・創造のための重要な自己照合の手がかりとなる。

与えられ身につけたすべてのものをいったんそぎ落とし、それでもなお自分自身の直接体験で実感するところが、再び我によるすべての自覚の手がかりとなるのです。

結局、自己と世界の不一致・一致の直接体験を自己照合の手がかりとする生き方は、自己と世界の関係の元来の一なる関係に、より深く目覚めていくような人生の歩み方となります。