場所的自己(13):現実主体の不一致・一致

 

ある箱庭

場所的自己にとっては自己と世界不一致・一致の前主体的な非言語的純粋経験が、ホロニカル心理学でいうところの直接体験です。

自己にとっては、場所的自己の実感する直接体験が実在する世界です。

したがって、場所的自己に我(現実主体)が無となって一致するときとは、場所的自己の直接体験がすべてであると実感・自覚するときといえます。しかし、場所的自己があるがままに実感・自覚するためには、我(現実主体)の成立があった後に、その我(現実主体)が無なることが必要です。

我(現実主体)の成立がないまま、あるがままの体験を実感しても、その段階では自覚とはいえません。あるがままの実感・自覚のためには、いったん成立した我(現実主体)が、無となることが必要になるのです。

こうした実感・自覚の有無が、子どもや動物と人間の大人との差異を決定づけています。

自己と世界が不一致・一致による喜怒哀楽は、避けることはできず、場所的自己がそのものになるまで(身体的自己の死)続きます。場所的自己とは喜怒哀楽そのものといえるのです。

場所的自己と場の不一致・一致が、自己と世界の不一致・一致となりますが、このパターンは、場所的自己と我(現実主体)の不一致・一致としても絶え間なく繰り返されます。我(現実主体)が無となって場所的自己と一致するときは、場所的自己と我(現実主体)は一となりますが、我(現実主体)が場所的自己を観察対象として観察した途端、場所的自己と我(現実主体)の間には主客分離による断絶が起き、場所的自己は自己と非自己化された多様な世界となってしまいます。結局、我(現実主体)にとっては、場所的自己との不一致・一致の揺れの中で、場所的自己とできるだけ一致する方向を求めて生きるしかなくなるわけです。

我(現実主体)は個的意識の中心的担い手であり、自己中心的な意識といえます。我(現実主体)の中でもホロニカル心理学外我と概念化している意識の主体は、物事を識別し分別する意識です。それに対して内我は、まだ場所的自己そのものを直覚しようとしますが、外我の影響などに影響されて、場所的自己そのものを実感することはできません。外我や内我といった我(現実主体)に対して場所的自己は、もっと自己超越的な存在であり、身体的であり、感覚運動的であり、生命的な存在です。場所的自己は、創造的世界の創造した命とのつながりや自然との関係がとても深い非言語的なフィールド的存在なのです。

現代人は我(現実主体)が場所的自己を支配・自己制御しようとする生き方が増加しています。しかし、そうした生き方は、両者が激しくぶつかりあうことになります。我(現実主体)が場所的自己を無視して生きるということは、命の原理である自然の摂理からは逸脱した教条主義的な理念先行の生き方になります。場所的自己との対話なき我(現実主体)優位な生き方は、場所的自己にとっては生命の危機となり、かつ苦悩の源泉となると考えられます。