“こころ”とは(21):“こころ”=場=絶対無(空)

“こころ”の捉え方には様々ありますが、ホロニカル心理学では、“こころ”とは、多様化と統合化という相反する働きをもちながら、一切合切を映し取り、かつ新たな一切合切を生み出す(フィールド)のようなものではないかと考えています。ホロニカル心理学が考える“こころ”は、個人の「心」がおいてあるところです。個人の「心」がおいてある場とは、様々な人の「心」の根底で、個々の人の「心」を映し取り、新たな個々の人の「心」を産み出す場でもあります。こうした究極の場が、ホロニカル心理学が考える“こころ”です。

こうした究極の場は、「絶対無」「空」と呼ばれてきたものに相当します。「空」は般若心経でいう「色即是空・空即是色」の「空」です。自己は生命です。生命としての自己は、絶えず死と再生の繰り返しです。細胞の一つ一つは、生成消滅のせめぎ合いを絶え間なく繰り返しています。自己にとって、「絶対無」「空」「場」そのものと「一の世界」になる死と、自己と世界が対立し自己と重々無尽の「多の世界」の生が、一刻・一刻せめぎ合いっているのです。

自己は、自己が生きる場所において、自己と世界の不一致・一致のすべての出来事を直接体験として自己の“こころ”にあるがままに映し取ります。そして自己(場所的自己)は、あるがままの直接体験を観察主体が観察対象として様々に識別し、重々無尽の世界をそれぞれの自己に応じて認識します。認識される森羅万象には、物理現象精神現象も含まれます。ホロニカル心理学では、“こころ”は、物体としては無である精神現象として捉えることができるし、有の物理現象として捉えることもできると考えています。二元論的に捉えられがちな心・身も、確かに両者は相対立し矛盾しますが、一方ではコインの表裏のような関係にあり、心身一如でもあるのです。“こころ”の働きに何を見ようとするかによって、精神現象を発見することができれば、物理現象を発見することもできるのです。

場所的自己と場所的世界の一致とは、観察主体の働きが無となり、観察主体と観察対象が主客合一することです。このとき、自己の観察主体が無になるときとは、観察主体の死が考えられます。しかし、自己にとって観察主体の死の無のときとは、当然のことですが観察対象も無となります。もうひとつが観察主体の働きを無とすることです。ホロニカル心理学では、観察主体とは、我(現実主体)と考えますので、現実主体の働きを止めて無我となり、自己と世界の不一致・一致の直接体験そのものに自己が合一することです。

無我とは、「絶対無」「空」の「場」そのものになることです。ホロニカル心理学的には、“こころ”そのものになることを意味します。観察主体が有となった瞬間、自己にとって世界は重々無尽に対立する世界となり、観察主体が無となった瞬間、「絶対無」「空」「場」という“こころ”そのものになることを意味します。

自己及び世界は、生成消滅を司る絶対無の働きによって瞬時・瞬時、新たな自己と世界を創造し続けています。そして自己にとって生きる場所がそれぞれの人の世界となります。自己は、“こころ”の持つ多様化と統合化の働きによって自己自身の“こころ”に映しとった場所を絶えず自己に応じた場所的世界となるように働きかけてもいるのです。自己は、自己と世界の一致を求めて適切な自己及び世界を自己組織化しようとしているのです。自己組織化の働きは、それぞれの自己の根底において、重々無尽の世界を創り出す“こころ”が、重々無尽の世界を絶対無(空)として、即、そのまま統合する“こころ”の働きによります。

現代の心理学を、場の立場から見直す必要があると思われます。自己が生きる「この世」は生死の場です。そのため自己は、苦悩や死の恐怖を避けることはできません。しかし、自己が生きる場所である「この世」は、自己と世界が対立する苦の場所ですが、自己と世界が絶対不可分にある絶対無(空)の場の涅槃の場でもあるのです。“こころ”は、苦の源ですが、いつでもこの世が涅槃でもあることに覚醒できる源でもあるのです。

現代人の多くは、生死の場との触れあいをますます忘れていくようです。場との触れあいの喪失は、“こころ”との触れあいの喪失です。場を忘れ、“こころ”を忘れ、自己の身体すら忘れてしまうと、我(外我)の思考優位の心だけが優位となり、他者と世界の感性豊かな触れあいを失った、無機質的で疎隔的な生き方になっていくことが危惧されます。