“こころ”とは(59):“こころ”に従い生きる

“こころ”に従い生きることが、哲学的に生きること、宗教的に生きることに通じると思われます。宗教や哲学も、“こころ”の実感と自覚が重要と考えられるからです。特に哲学や信じる宗教がない人でも、“こころ”の実感と自覚に基づいて生きる限り、“こころ”は生きるための拠り所になります。

問題は、“こころ”とは、一体何なのか? “こころ”の実感と自覚とは、どのようなことなのか? にあります。

しかし、“こころ”そのものについて語ることは困難です。“こころ”とは、語り尽くすことができないものです。語った途端に、多様な顕れをする“こころ”の全体の現象のほんの一部の顕れだけに語りの内容が限定されてしまいます。形として見えるようなものではないため、“こころ”そのものを簡単に観察対象にすることができません。さらに、“こころ”について観察しようとする人そのものが、“こころ”の働きですから、観察しようとする人の主観を抜きにして、“こころ”を語ることができません。結局、“こころ”は、客観的な観察対象になりきれないのです。

そのため、“こころ”の動きを、ある言葉やある概念によって説明しようとした途端、実は“こころ”の説明がとても狭いものになってしまうことは避けられません。“こころ”そのものは、言葉や概念など知性や理性によって意識化され語られたもの以外を常に含むものといえるのです。意見が激しく対立する時、相手の理不尽な言動に怒りの感情を表出した時であったとしても、怒りの感情以外には、理解されないことへの理不尽感、怨念、寂しさ、孤独や悲哀など、複雑な感情を“こころ”は実感しています。意識化された“こころ”とは、観察しようとする者にとって、観察対象となった“こころ”のほんの一部の作用にしかすぎないのです。言葉でもって認識したり、説明しようとした途端、“こころ”とは、そのようなものだけでは認識したり、説明できるものではないものになってしまうのです。“こころ”は言葉を生み出す源泉ですが、言葉によって“こころ”は語り尽くせないものであることを忘れてはならないのです。

“こころ”は、見えず、意識化しきれず、説明不可能なものといえるのです。しかし、あるかないかと問われれば、誰もが感じているものとして実在するものとして実感していることはあまりに確かです。哲学者デカルトの「我思う、故に我あり」は、ホロニカル心理学的には、「我は思う故に“こころ”あり」と考えます。物体のように観察対象として、確かめられないし、言詮不及なものといえるものの、実感する働きとしてあるといえるのです。

自己は、世界内存在として自己以外の一切合切と自己が生きる場で触れあっています。自己と世界の触れあいを直接体験とするならば、直接体験のあるところには、“こころ”が働いているのです。

創造的世界は、自己を生み出した創造者のようなものでありますが、しかし、その創造的世界は、世界に自己を呑み込まんと自己に死を迫りくります。そのため、自己は、必至に世界に呑まれまいと対立・抵抗しながらも、生きている限り、できるだけ自己と世界が一致するように自己自身を変容させたり、自己にとってより生きやすい世界になるように世界を変容させようと世界に働きかけているわけです。

こうした自己と世界のせめぎ合いが、自己が世界との触れあいの直接体験を産み出しています。したがって、“こころ”を実感・自覚しながら生きるとは、自己と世界の不一致と一致のせめぎ合いにあって、できるだけ自己と世界が一致するように生きることといえるのです。