今の臨床心理学を含む心理学は、“こころ”そのものをあたかも見ないようにしているように思える。“こころ”そのものを研究対象とするとき、研究しようとするものの“こころ”の影響を排除できないため、ほとんどの研究者は、“こころ”のほんの一部の働きを研究対象として限定し、“こころ”の全体を扱うことを避けているといっても過言ではない。
“こころ”を扱う場合、“こころ”の働きを実感・自覚する主体を離れて研究することができないのである。研究者の“こころ”の働きを無視した研究は、知的に考え出された観察結果に過ぎないといえるのである。
“こころ”の研究においては、観察者の観察行為と観察対象との関係を離れて、客観的に“こころ”を研究することはできないのである。“こころ”の研究には、観察問題という不確定性原理が働くといえるのである。
主観を離れた“こころ”の研究は、心理学が自ずと情感なき、乾いた機能的心理学になってしまう。
喜怒哀楽、愛憎、苦と楽、生と死などの絶対的な矛盾を離れた心理学は、“こころ”を研究しているのではなく、“こころ”の機能と構造的特徴を語っていても、“こころ”そのものを語っているとはいえないのである。
今日の臨床心理学や精神医学は、絶対的な矛盾をどのように乗り越えていくかを示すことはできていない。今日の臨床心理学や精神医学のエビデンスのなさは、増加する“こころ”の専門家の実態は、皮肉なことであるが、人々の生きづらさがより生きやすくなることにいかに臨床心理学や精神医学が貢献していないかの指標ともいえる。
“こころ”の専門家は、“こころ”自身であって、決して“こころ”の専門家でない。“こころ”の専門家が、“こころ”自体から専門家の手に委ねられる社会は、“こころ”の抱く苦の問題を、専門家による治療に委ね、市場化させることで利益を得るものに利益をもたらすだけといえる。
臨床心理学や精神医学は、苦悩を個人病理化することに貢献するだけならば、そうすることで利益を得るものだけに貢献し、その他多くの市場化のためには、生きづらさを抱く人の市場を拡大するための言説をあたかも科学的根拠をもったものとして流布するだけある。今日の精神医学や臨床心理学は、生きづらさに対して、新しい障害名・疾病名・症状名を与えることによって市場の拡大化に成功しているだけといえる。
“こころ”の抱く苦悩は、心的症状や心的問題になって顕れくる。しかしそうした苦悩への対処法は、時代ごとに社会・文化の影響を強く受けていることには変わりが無い。いかなる現象をいかなる心的症状や心的問題として定義し、いかに扱うかは歴史・社会・文化的な問題であることを忘れてはならないのである。
“こころ”の現象は多層多次元な顕われをする。それにも関わらず、ある次元・ある層を対象化して、あたかもすべての現象をその次元や層の基準だけで説明できると考えるのは、すべてカテゴリーエラーであり、一種の心的インフレーション現象といえる。
大切なことは、観察主体と観察対象の無限の組み合わせによって重々無尽に変化する“こころ”の現象自体を自由無礙の俯瞰によって実感・自覚を深化させていくである。
その点、今の臨床心理学や精神医学は、深化とはまったく逆の断片化、混沌化、希薄化の道をひたすら走っているように思われる。そうしたアカデミズムの世界に蔓延するのは、ある次元・ある部分に関する専門家の権威主義化であり、多層多次元な問題を扱うことを求められる心理社会的支援の現場とアカデミズムとの乖離の拡大でしかないといえる。
今日のアカデミズムの世界で権威をもっている人々の事例のほとんどは、自ら診察室や面接室や研究室を訪れる人や、誰かに強く勧奨されながらも、とりあえず日常生活の場を離れた非日常的な場である診察室や面接室や研究室に足を運んだ人を対象としている。しかし、今日問題になっているのは、複雑な問題が錯綜する生活現場で次々と起きてくる生きづらさへの対応である。地縁血縁などの地域コミュニティや家族機能が弱体化する家庭の現実の中で、指数関数的なうなぎ登りの児童虐待がその典型例である。
専門誌や研究誌や学会誌で扱われるほとんどの虐待事例は、過去に受けた心的外傷への治療的アプローチであり、今・現在の生活環境は、物理的には基本的には安全・安心が保障されているケースが多い。また現時点の人間関係が過去の虐待という加害者・被害者関係を身近な支援者と再現的な関係になっているとしても、現時点の支援者の多くは、かつての加害者とは明らかに異なる環境にある。しかし現に今・現在も暴力・威圧・威嚇・否定などのパワーゲームを繰り返している多くの事例より、少しでも治療効果を期待して来室している事例よりも治療効果が高いことは当然であり、今日問題になっているのは、今・現在、戦争状態にあるような場でいかにして生き延びていくかを支援することを可能とするような理論と技法の徹底的な研究にあるといえる。その意味では、精神医学や臨床心理学の既存の理論や技法のほとんどは、診察室、面接室・研究室以外では、そのまま応用することも事実上、支援構造や治療構造そのものが非日常空間と日常空間の間にあまりに乖離があり、そのまま応用することは事実上不可能なものばかりであるのが実態といえる。結果的に、多層多次元にわたる錯綜する問題に対峙することになる生活現場に近い心理社会的な支援現場では、あらゆる智慧を活用して、自らがその場の現実に応じて、独自の創意工夫を図っているのが実態といえる。アカデミズムは、こうした四苦八苦する支援現場に対して、治療構造がない、専門性が低いと否定してきたことも、支援現場での無力感形成に影響していることを否定できない。
アウトリーチとよく言われるが、そうしたアウト・リーチの思想は、専門性をもった専門家が、その専門的知識と技術を家庭訪問や施設訪問によって提供するという、専門家の上から目線であることが多く、そうしたパターナリズム的姿勢が、当事者からの抵抗を強めその門から出されることも多い。
大切なことは、専門家自身が、街や家庭に自ら足を運び、錯綜する現場をまずは専門家自身の肌でももって実感することである。生きる場の生々しさを実感・自覚することにある。その上での安全で安心できる非日常的な場の保障と、そうした安全で安心できる人や居場所の模索を支援することが大切になるのである。
多層多次元な問題が錯綜する日常現場に理解をしようとする「親密な他者」の存在を通じて、はじめて自己及び世界との信頼回復や信頼関係づくりに、もう一度、再チャレンジする気持ちになるといえるのである。
明らかに多層多次元な問題が錯綜する現場での支援の方が、診察室・面接室・研究室の支援より困難であり難治な事例と向き合っていることを、診察室・面接室・研究室の専門家は識らねばならないのである。
昨今の臨床心理学関係学会や精神医学会は、複雑化・錯綜化する社会との接点を失ってはならない。実践現場を支える研究や倫理の深化は重要であって、決してその逆ではない。
今日のパターナリズム化しはじめた学会は、自ら改革を図らない限り、実践現場からの支持をいずれ失うと考えられるのである。
生きづらさを抱く当事者が、自らは悩む権利を持っていることに覚醒し、問題解決の主体も、“こころ”の専門家ではなく、当事者自体にあることを明らかにする時代が到来してきているといえるのである。