「保護から支援へ」「指導から共創へ」:保護主義だけでは限界が見え始めている児童虐待対策

全国の児童相談所に寄せられる児童虐待相談の件数は、統計開始当初と比べて約200倍に増えています。しかし、この数字は虐待そのものが200倍になったことを意味するわけではありません。これまで見過ごされてきた子どもの苦しみに社会が気づき、子どもの安全を守ろうとする意識が高まった結果でもあります。こうした変化によって、多くの子どもの命が守られてきたことは確かです。

一方で、「もっと早く保護すべきだった」「なぜ家庭に戻したのか」といった声も強まり、児童相談所は「保護するか、しないか」「家庭に戻すか、戻さないか」という重い判断を常に迫られています。判断を誤れば子どもの命に関わる可能性があり、社会から厳しい批判を受けることもあります。現場の緊張は外から想像する以上に大きく、「児童相談所は戦場のようだ」と表現される状況も決して誇張ではありません。

一時保護後に子どもを家庭へ戻す際には、再発防止のための注意や指導、約束の確認が行われます。子どもの安全を守るためには譲れない一線があり、毅然とした対応が必要な場面もあります。しかし、注意や指導、書面での約束だけでは、家族の関係そのものを変えることは困難です。

一方的な注意や指導は、保護者に「責められた」という思いを残し、子どもには「自分のせいで家族が壊れた」という罪悪感を生むことがあります。支援者も、相手のためを思って伝えたはずなのに怒りや不信を向けられ、支援しようとすればするほど関係が遠ざかる。保護者は子どもの行動への限界感を募らせ、支援者は疲弊し、家族の緊張が再び高まり、虐待の再発や再通告につながる・・・・・・こうした悪循環が現場で繰り返されています。

児童福祉法の理念は、誰かを悪者として責めることではありません。子どもの最善の利益を最優先にし、保護者・地域社会・国・そして私たち一人ひとりが、子どもの健やかな育ちを支えることにあります。そのためには、「誰が悪いのか」「何を指導するのか」という視点から、「いま何が起きているのか」「どんな悪循環が続いているのか」「どう支えれば生きやすい方向へ変化できるのか」という視点へ転換する必要があります。

もちろん、保護が必要な場面はあります。危険が迫っているときには子どもの安全を最優先しなければなりません。しかし、保護だけが前面に立ち、支援が後景に退いてよいわけではありません。保護者の養育を監視するまなざしばかりが強まれば、家庭の孤立化や密室化を深めることがあります。保護を確実に行いながら、その後の家族の関係をどう支えるか――両方を一体として考えることが求められています。

いま現場では、問題を特定の個人の責任や病理だけに結びつけるのではなく、子ども・保護者・支援者・地域社会の関係のなかで多層的に繰り返される悪循環を、みんなで俯瞰する実践が始まっています。これは、当事者と支援者がともに問題を調べ、対応策をつくる「当事者参加型の共創的支援モデル」の試行といえます。

たとえば、子どもが怒って物を壊したとき、その子を「乱暴な子」と呼んでしまえば、問題は子どもの人格と一体化してしまいます。そこで怒りや衝動に「赤鬼」「かんしゃく虫」「地雷」などの名前をつけ、本人から少し離して捉える・・・・・・これが問題の外在化です。

「赤鬼はどんなときに現れるのだろう」「地雷を踏む前に合図はなかっただろうか」「次はどんな作戦を試そうか」。支援者はホワイトボードや図、小物などを使いながら、具体的な出来事を子どもや保護者と一緒に眺められる場をつくります。

このモデルでは、支援者は子どもや保護者を評価する人ではありません。問題を外在化し、悪循環の仕組みをともに調べ、新しい方法を探す共同研究者です。「どうしてそんなことをしたのか」という問いは、「あのとき何が起きていたのだろう」「次に同じ場面になったらどうすればよいだろう」という問いへ変わります。わずかな言葉の違いでも、受け止め方は大きく変わります。

ただし、共同研究の場はきれいごとだけでは成り立ちません。深く傷ついてきた人ほど支援そのものに不信や警戒心を抱き、それを支援者に向けることがあります。一方で「この人なら完全に分かってくれる」と強い期待を向けることもあります。期待に応えている間は理想的な支援者として受け止められても、少しでも期待と異なることを伝えた瞬間、「この人も裏切った」と感じられることがあります。

支援者も怒りや恐怖、無力感に揺さぶられます。しかしそれは未熟だからではありません。子どもや保護者が体験してきた傷ついた関係の形が、支援者との関係にも相似的に繰り返されることがあるからです。

だからこそ支援者には、子どもだけでなく保護者を含む周囲の安全を守るための毅然とした限界設定と、その行動の奥にある傷つきを理解しようとする姿勢の両方が求められます。「暴力や暴言は認められない」という一線を示しながらも、相手を排除するのではなく、「なぜその行動を起こさずにはいられなかったのか」「今後どうすればよいのか」をともに考える姿勢への転換です。

極度の恐怖や絶望、孤立のなかでは、理性による制御が難しくなり、自他を傷つける衝動性や攻撃性が立ち顕れることがあります。ホロニカル心理学では、この側面を“こころ”の「野獣性」と捉えます。

野獣性に向き合うとは、暴力を容認することでも、当事者を切り捨てることでもありません。「ここから先は認められない」という限界を示し、その枠のなかで衝動性や攻撃性の鎮静化を支えながら、悪循環から抜け出す方法を共同研究的に探すことです。

虐待という出来事を俯瞰するとは、野獣性から目をそらさず、しっかり対峙しながらも、誰もが安全に安心して出来事を眺められる場です。そこでは、野獣性を鎮静化するだけでなく、より安全で安心できる、より生きやすい対応を当事者と支援者がともに模索します。

同時に、問題ばかりに焦点を当てるのではなく、家族のなかで起きているよい出来事を見いだし、その肯定的な意味に光を当てることも大切です。暴力や自傷、家出、万引き、嘘、約束違反などに向き合いながらも、生活が問題だけで成り立っているわけではありません。昨日は大げんかをした親子が、今朝は一緒に朝食を食べていた。ほとんど口をきかなかった子どもが、帰り際に小さく手を振った。「誰も信じない」と言っていた保護者が、もう一度相談に来てくれた。こうした小さな出来事のなかにこそ、次の変化の芽があります。

家族のなかにすでに生まれている小さな変化を見いだし、その意味を共有し、さらに増幅していくことは、家族が本来もつレジリエンスを強め、広げる支援につながります。

こうした実践の基盤となるのが、ホロニカル心理学ABCモデルに基づくホロニカル・アプローチです。ABCモデルでは、苦悩や問題行動が前面に現れている出来事だけに焦点を当てるのではありません。

A点は、自己と世界の関係がかみ合わず、不一致が生じている出来事です。怒りや暴力、自傷、孤立など、“こころ”の野獣的側面が現れることもあります。B点は、一瞬でも安心できた、誰かとつながれた、自己と世界の出あいが一致した出来事です。C点は、A点とB点の両方を、できる限り無批判・無評価・無解釈の立場から俯瞰する観察主体です。

はじめは支援者がC点のまなざしを担います。しかし、そのまなざしを向け続けるうちに、子どもや保護者自身が「また赤鬼が出た」「今回は少し早く気づけた」「全部駄目だと思ったけれど、あのときは話し合えた」と、自分たちの出来事を少し離れたところから眺められるようになります。

支援の場にあった共同研究的な俯瞰のまなざしが、やがて当事者自身のなかに取り込まれ、内的世界と外的世界の関係を見つめる観察主体として育っていく。よい支援とは、支援者のまなざしが当事者自身のまなざしとして内在化されていく歩みだといえます。ホロニカル・アプローチは、多層多次元にわたる問題が錯綜する児童福祉や学校心理臨床の現場から生まれた、内的世界と外的世界を関係のなかで一体的に扱う統合的な心理社会的支援の方法です。

これからの児童福祉に求められるのは、保護を否定することではありません。子どもの安全を守るための保護を確実に行いながら、その先に、子どもと家族が少しでも生きやすくなる支援をつないでいくことです。

「保護から支援へ」とは、保護をやめることではなく、保護だけで終わらせないことを意味します。「指導から共創へ」とは、必要な限界を示さなくなることではなく、その限界のなかで当事者と支援者が新しい生き方や関係をともにつくることを意味します。

児童福祉の最前線ではいま、安全を守る毅然とした限界設定と、悪循環から抜け出す道をともに探す共同研究的な協働を両立させる、新しい実践の可能性が模索されはじめています。

 

※参考図書(アマゾン出版で販売)
ホロニカルな“こころ” : 場としての“こころ”と心理社会的統合アプローチ.発行所,心理相談室“こころ”,2026年。