真理(9):究極の理

世界と自己との不一致・一致の無限の繰り返しの直接体験には、分裂と統合、多様化と統一化をめぐる究極の理が含まれていると考えられます。

究極の理によって、多層多次元にわたる重々無尽の世界が創り出されていると考えられます。言語を持った人間は、そうした究極的な理(真理)に対して、「天理」「真如」「道」「真言」などと名づけて来ましたが、もともと言詮不及の働きに仮の名を与えてきたといえます。名づけが異なるのは、言詮不及の働きを語る言語が、歴史的文化的制約をうけているホロニカル主体(理)が異なるためです。

それ故、「天理」「真如」「道」「真言」と呼ばれてきた「真理」は、外我が内在化しているホロニカル主体(理)で語るものと、言詮不及の「真理」と、本来、明確に区別されなければなりません。むしろ、ホロニカル主体(理)によって語るざるを得ない「天理」「真如」「道」「真言」は、一切合切を包摂する直接体験の直観的な実感・自覚と絶えず自己照合されることが必要となります。ホロニカル主体(理)は、自己自身の直接体験の真理の直観による自己検証を絶えず受けることが必要にといえるのです。直接体験との自己照合による自己検証なき、「天理」「理」「真如」「道」「真言」は、知的に考え出された教条的な空想や非科学的妄信に過ぎないといえます。

直接体験とは、本然的自然ともいうべき言詮不及の自己の自己自身に映された自己と世界の瞬間・瞬間の出あいの「あるがまま」のことです。言詮不及の「あるがまま」との自己照合及び自己検証の作業は、自己の自己自身による自己自身に映された直接体験の行為的直観了知によることになります。我が我を失い直接体験そのものとなるとき真理が直観的自覚的に与えられることになります。直観的自覚的な自己と世界の一致のホロニカル体験を手がかりにして、自己と世界の不一致による自己違和感を、より一致する方向に向かって生きることが大切になるのです。

そうした生き方は、「今・ここでの一瞬・一瞬」を、すべて場所的自己に映し、時々刻々、自己と世界が、僅かでも一致する方向を目指して創造的に生きる生き方に自ずとなっていきます。

このとき我を忘れるという作業が、外我のみの段階に留まり、むしろ内我に執着する人がいます。こうした人は、内我による幻想的世界を、あるがままと錯覚します。あるがままは、外我も内我も忘れ、自己が自己を忘れて自己を含む世界そのものとなることです。世界そのものを、なんら曇りなく、そのまま透徹する最も客観的態度といえるのです。