青山常運歩(せいざんじょううんぽ)

曹洞宗開祖の道元は、「正法眼蔵」の「山水経」の巻で、「青山常運歩」という考え方を書き残しています。人が「不動の山」と思っている山が、絶えず歩くというのです。山が絶えず歩くとは、常識的な自己と世界の関係を根本からひっくり返します。

しかし最近になってやっと、道元の真意が私なりにほんの少しだけ了解できるようになってきた気がします。

山のように一見したところ、じっとして変化がないように思えるものも、ちょっと視点を変えてみると、絶えず変化していることは明かです。私が実際に触れている山は、むしろいつも絶えず変化しています。その変化している山に気づくと、人にとって不動に見えた山が動きだします。

遠くから見ている山と、山の深く入ったときの山は、まったく山の様相は変化します。結局、山と私という自己との関係は、お互いに縁起的に絡みあって、山もまた変化し、私という自己も絶えず変化し、いっときも同じということはないといえます。

山と私(自己)は、主観と客観のように対立はしておらず、物我一体であり、かつお互いが共創的に変化しています。

こうした自己と世界の関係は、心理社会的支援の場でも被支援者と支援者の関係にも置きかえられます。一般的には、よき支援とは、支援者が被支援者に対して、因果論的な見立てが明確で、かつエビデンスがあるとされ、一定の専門的知識や技術によって被支援者の抱える苦悩をより楽にすることと考えられています。しかし、それは支援のほんの一面にすぎず、よき支援の全体を表現しきれていません。むしろよき支援の実態は、支援者が被支援者の言動によって絶えず突き動かされ変化し、被支援者も支援者の言動によって変化するなど、実際の展開はもっと複雑です。そして、究極的には、被支援者と支援者は、ある苦悩をめぐって共創的に変化するとき、新しい生き方がその場から創発されてくるという展開がほとんどです。

よき支援には、ある苦悩やある問題を被支援者と支援者が共有しながら、よき生きやすい人生の道を共同研究的協働関係を構築しながら共創的に発見・創造していくような展開が見られるのです。