直接体験(29):知情意を創発

直接体験とは、自己と世界の出あいの不一致・一致のあがままの体験のことです。不一致と一致の絶え間のない繰り返しは、究極的には生死の悲哀が伴う喜怒哀楽の源泉でもあります。知情意も直接体験から創発されます。

しかし外我が知る直接体験は、直接体験そのものではありません。知られた直接体験は、知られる前の直接体験そのものとは異なるのです。そもそも外我が何かを知るということは、知的な識別基準に従って何らかの情報を間接的に識別したり判断することであり、むしろ直接体験と自己照合がない限り、その知識は生きた情報にはなりません。外我の知識も直接体験との照合を失うと、我々は真偽の曖昧な情報に振り回される生き方になります。それでは、自己が生きている場との生き生きとしたつながりという自明性を失ってしまいます。

SNSが加速度的に進展する高度情報化社会では、内我による直接体験の経験の幅がますます狭くなる一方で、間接的な知的情報ばかりが頭にいっぱいになった外我優位な生き方の人が急増しています。しかしSNSを道具として上手く使いこなすためには、まずは実存的レベルでの豊かな自己と世界との直接のふれあいによる体験が自己に保障されていることが必要と思われます。

外我の働きが優位になればなるほど、生きた人や世界との関係が煩わしくなり、面倒に感じるようになり、SNSの世界だけが直接体験の世界になってしまいます。しかしそれでは、自己の頭が喧噪的な情報量の増大でいっぱいになり、内我による直接体験の直覚はますます狭隘化すると考えられます。