“こころ”の研究法

心理学は、対象論理だけでは成立しません。何故ならば、“こころ”は物の現象のように観察対象を時間的空間的に固定することができないからです。そのため“こころ”の働きを対象化しようとする“こころ”の働きが観察結果に影響を与えることを避けることができません。“こころ”に何を見ようとするかが、見える結果に影響を与えてしまうのです。“こころ”に認知の働きを見ようとすれば認知の働きに関する観察結果を得ることができますが、認知は“こころ”のある面を表現していても認知だけをもって“こころ”のすべてを説明したとはいえません。“こころ”に感情の働きを見ようとすれば感情の働きに関する観察結果を得ることができますが、感情は“こころ”のある面を表現していても感情だけをもって“こころ”のすべてを説明したとはいえないのです。

“こころ”は、“こころ”の働きの何を観察対象として見ようとするかが、観察結果に影響するのです。しかも観察対象に何を見ようとするかといった観察主体の態度も、まさに観察者の“こころ”の働きですから、“こころ”の現象とは、観察主体と観察対象の組み合わせによって変化するのは当然です。その結果、観察主体と観察対象の組み合わせの分だけ、“こころ”の現象が発見できるわけです。心理学は、観察主体と観察対象の関係自体を含む必要があるのです。

観察主体と観察対象の組み合わせは無限に考えられますが、観察主体に関しては二つの極限が考えられます。一つの方向は、観察主体と観察対象の組み合わせ自体ををメタ認知的に究極の天空の方向から俯瞰する超越論的な観察主体の方向です。自己と世界を含むすべての現象を総覧的総括的に超越論的主体を設定する方向です。もうひとつの方向は、観察主体の働きを極限の点に向かって無にしていく方向です。我の働きを忘れ、無心となって自己の無限の底に向かう方向です。観察主体の働きを忘れ無となって、西田哲学的に「物となって見、物となって考え、物となって行う」と観察主体が観察対象そのものになる方向です。前者が西欧哲学が志向した極限のマクロの観察主体の方向とすると、後者は東洋思想が志向した無限のミクロの観察主体の方向といえます。

しかし、究極のマクロと究極のミクロの関係は、陰陽論が「陰極めれば陽に転じ、陽極めれば陰に転ず」と語るように、マクロの極限は極限のミクロに転じ、ミクロの極限は極限のマクロに転じるとホロニカル心理学では考えます。「色即是空、空即是色」(般若心経)や「0=∞」(鈴木大拙,1962)も同じパラダイムと考えています。“こころ”とは、まさに「0=∞」の現象世界といえるのです。科学が真実に近づこうとするならば、観察主体と観察対象の因習的な既知のパラダイムに盲目的に従うだけではなく、といって主観的に流れることもなく、こうした心理学的現実を含むものであることが必要と考えられます。

<参考文献>
鈴木大拙(1962).自由・空・只今(鈴木大拙著.上田閑照編.東洋的な見方(1997).岩波書店;72)