時(1):西田幾多郎の「時」についての考察

西田は幾多郎は、1940年の「日本文化の問題」のなかで、「時」について次のように語っています。

「時の根柢には限定せられた何物をも考へることはできない、形ある何物の考へることはできない。若しさう云ふものが考へられるならば、時と云ふものは固定したものとならなければならない、動かないものとならなければならない。時は限定するものなき限定、無の限定として考えられるのである。個物的多と全體的一との矛盾的自己同一として作られたものから作るものへといふ世界は、その全體的一として何處までも相對立するものを結合する方向に於いて、時間的である。時は非連續と考へられる。之に反しそれは何處までも個物的多として相對立するものの相互限定の世界として空間的である。従來の主客相互限定の考へ方より云えば、時の方面が主観的、空間の方が客覲的と云ひ得るであろう。」(西田,1940)

西田哲学の時空に関する根幹をなす考え方です。すべての相対立する現象を瞬間・瞬間統一している作用に時が考えられるというのです。しかも「時」を限定するものは、有でなく「無」というのです。こうした西田幾多郎の時の考察には、大乗起信論や禅思想に見られる「時」の捉え方の影響があると思われます。

ホロニカル心理学も、過去を含み未来が開かれてくる現在が現在自身を非連続的連続に限定するところに「時」があると考えます。こうした「時」の感覚は、一般的に外我が認識する過去から現在、そして未来へというような時計によって示される直線的時間とは異なります。

私たち現代人は、「時」に生きた自己を感じ、「時間」に追われてた自己を生きてるわけです。

 

<参考>
西田幾多郎著、日本文化の問題.1940年.岩波書店.P96.