
フランス生まれのルネ・デカルト(1596-1650)は、近代哲学の父と言われます。デカルトの有名な命題に「我思う、ゆえに我あり」(Cogito, ergo sum)があります。デカルトがいう「我」とは、すべての疑念を排除した後でも確実に存在する思惟の主体にあたります。「我」こそが、「疑うことのできない」確固なものというわけです。しかも「我」は、身体や外界の物理的存在から独立した、純粋な意識として認識されています。デカルトの「我」の発見は、外界の存在との無関係に独立性をもった思考する主体が強調されたため、近代的自我(個我)の形成の中心的役割を果たしました。
プロイセン王国の哲学者イマヌエル・カント(1724-1804)は、デカルトの合理論とロックやヒュームの経験論を統合しながら、理性の限界と可能性を明らかにしていく中で、認識の背後に理性と感性が協働するような認識を形成し、その前提条件として「超越論的主観性」があると提唱しました。カントによれば、私たちの経験は、「超越論的主観性」の枠組みによって統一され、認識が可能になるとされます。しかし、人間の認識能力には限界があり、物自体(Ding an sich)は直接的には認識されないとしました。「超越論的主観性」は、すべての現象を基礎づける形而上学的(超自然的)原理であり、それ自身は世界(自然)を超越しています。こうした考え方は、「人間の認識は対象に従う」という考え方を、「対象が人間の認識の仕方に従う」という考えに逆転させます。そのためカントは、「コペルニクス的転回」を図り、近代科学の科学的認識の限界とともに哲学的基盤を提供したとされています。
デカルトの「我」は近代的自我(個我)の成立につながり、精神分析の創始者であるジークムント・フロイト(1856-1939)の自我構造論でいう「自我(エゴ)」の考え方にも影響を与えていると考えられます。フロイトの自我は、ホロニカル心理学の概念でもって解釈すれば、現実主体(我)に相当します。フロイトの自我は、現実原則に基づいてエスを制御・コントロールすべき対象として扱っています。こうしたフロイトの自我は、ホロニカル心理学の自己意識の発達論における第4段階の他律的外的現実主体に相当します。また、フロイトの自我の現実原則とは、他律的外的現実主体が内在化しているホロニカル主体(理)に相当し、フロイトの超自我に相当します。
カントの「超越論的主観性」は、「神」や「仏」と同じようにホロニカル心理学のホロニカル主体(理)における文化や歴史的背景を脱構築したときに、すべての認識の背景にあるアプリオリな枠組みであるホロニカル心理学でいう「IT(イット)」に相当すると考えられます。
ホロニカル心理学では、デカルトの「我」、カントの「超越論的主観性」、そしてフロイトの「自我」を整理する中で、それぞれが主知的であり、西洋的な知が優位な学問から生まれた概念ではないかと考えています。心理学は学問として主知的な面が大切ですが、生々しさを失ってはならないとも考えられます。また、いずれの立場もホロニカル心理学が重視する「エス」の破壊と創造の生命エネルギーといった創造的な側面が十分に考慮されず、理性による統一面が強調されすぎているように思われます。特に、すべての現象の生死の舞台となっている場との関わりでは、直接触れることのできない認識外のテーマとして切り離されてしまっているように思われます。西洋の伝統では、「存在」を「有」として捉え、「無」は「存在の欠如」「神の不在」または「無から無は生まれない」として「虚無」として扱われてきたため、このような特徴が見られます。しかし、こうした「無」の捉え方は、東洋の「無」の捉え方の伝統とは異なります。東洋の「無」は、仏教の「空」のように、有は西洋思想でいう恒常的な実体ではなく、物心を相対的な矛盾として同一に捉え、「すべては無常であるがままにある」として場的なフィールドとして直観的に捉えています。ホロニカル心理学は、西洋思想の「有」の捉え方と東洋の「無」の捉え方を行き来しながら、両者の統合化を目指した新しい心理学を構築できるのではないかと考えています。