我の錯覚

AIで作成

“こころ”の働きは、個人的なものに限定されません。もっと一般的なものです。一般的な“こころ”の働きが創造的に発展して、個人的な“こころ”の働きとなると考えられます。我(現実主体)は、精神活動の統一作用の中心点ですが、統一者ではありません。

我を統一者と思うのは錯覚です。心臓をはじめ自己の命を動かしているのは、身心一如の自己自身の作用であり、我ではありません。しかし、我という中心点を失うと、我の精神活動は統合性を失ってしまいます。

西田幾多郎の「善の研究」にある「個人あって経験あるにあらず、経験あって個人あるのである。」という考えは、身体的自己と世界との直接体験がまずあり、その上ではじめて「私」という個人の意識が芽生えるというものです。つまり、私が直接体験を動かしているわけではありません。

私たちは「私が生きている」と思いがちですが、実際には「私たちは生かされている」という表現の方が正確です。