ホロニカル心理学からみた言葉

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人は、自分が感じていることを、本当に言葉にできるのでしょうか。心理社会的支援の場で長く人の言葉に耳を傾けていると、私はこの問いに何度も立ち戻ります。

「悲しいです」と語る人の声を聴きながら、その人が感じているのは、本当に悲しみだけなのだろうかと思うことがあります。その奥には、怒りや悔しさ、寂しさなど、言葉では言い尽くせない、もっと複雑な思いが重なっているのかもしれません。語られた言葉のあとに、まだ何かが残されているような余韻を感じるのです。

私たちが“こころ”で実感している体験は、言葉によって完全に捉え尽くしたり、意識化したりできるものではないのではないでしょうか。

ホロニカル心理学では、自己と世界を一瞬・一瞬の出来事として立ち顕れさせている根源的な働きに、仏教でいう仮名(けみょう)として、あえて“こころ”という名を与えています。こうした“こころ”の捉え方では、自己が先に存在して世界を認識するのでも、すでに完成した世界を自己が受け取るのでもありません。自己と世界は、その出あいのなかで同時に立ち顕れてくる出来事です。そして、その根底で働いているものこそ、“こころ”の働きに相当するのではないかと考えています。

美しい夕焼けを前に、思わず足を止めることがあります。懐かしい人の声を聞いた瞬間、理由を考えるより先に胸の奥が動くこともあります。そのとき私たちは、「これは悲しみだ」「これは過去の記憶による反応だ」と、言葉で整理してから感じているわけではありません。身体感覚や感情、記憶、その場の空気や世界との関係が、まだ一つに溶け合ったまま、一つの出来事として立ち顕れている。私たちが「夕焼け」に出あうとは、そのような出来事なのではないでしょうか。

ホロニカル心理学では、このような生々しい体験を、言葉以前の「直接体験」と捉えています。ただし、「言葉以前」といっても、歴史や文化の影響を受けていない純粋な内面が、どこかに存在するという意味ではありません。私たちの感じ方には、それまで生きてきた時間が深く刻まれています。家族との関係、出あってきた人々、傷ついた経験や守られた記憶、暮らしてきた地域や時代の価値観などが幾重にも重なり合い、今この瞬間の体験を形づくっています。直接体験とは、身体感覚と感情、記憶と認知、自己と他者、そして世界との関係が、まだ言葉によって切り分けられず、一つの出来事として立ち顕れている状態です。

私たちが用いる言葉も、決して自分一人で生み出したものではありません。生まれる前から社会のなかに受け継がれてきた言葉を学び、その言葉を借りながら、自分の体験を表現しています。しかし、言葉の意味は、辞書的な定義だけによって決まるものではありません。同じ言葉であっても、その人が生きてきた歴史や他者との関係によって、そこに込められる意味は異なります。

私たちは、歴史のなかで育まれてきた言葉を用いながら、自分の実感に少しでも近づこうとします。「悲しい」「不安だ」「傷ついた」という言葉は、自分の体験を他者と分かち合うために欠かすことのできないものです。しかし、その一言だけで、体験のすべてを語り尽くすことはできません。胸の奥に残る締めつけられるような感覚、ふとよみがえる昔の記憶、相手の表情、その場を包んでいた沈黙。そうしたものは、言葉になった瞬間、その一部が静かにこぼれ落ちていきます。

けれども、それは言葉の限界であると同時に、言葉の可能性でもあるように思います。言葉にならない実感と言葉との間には、つねにわずかな「ずれ」があります。そのずれがあるからこそ、私たちは語り直し、聴き直し、それまで見えていなかった自己や世界との関係に出あうことができます。一度語った言葉を手がかりに、もう一度、自分の実感へ立ち返ってみる。その往復のなかで、それまで見えていなかった自己や世界が、少しずつ新しい姿を現してくることがあります。

言葉は、曖昧だった実感に輪郭を与えてくれます。しかし、直接体験をそのまま写し取る鏡ではありません。私たちの実感のなかから言葉が生まれ、その言葉によって、もとの体験はもう一度照らし返されます。そして、新たな意味を帯びた体験は、その後の自己と世界との出あい方にも影響を与えていきます。言葉は体験を表現するだけでなく、体験そのものを深めます。私たちは過去の出来事を語っているつもりで、その言葉によって、現在の自己と世界との関係を少しずつ創り直しているのではないでしょうか。

ホロニカル心理学では、“こころ”を、哲学における「絶対無」や仏教における「空(くう)」と相似的なものとして語ることがあります。しかし、それは、“こころ”という実体がどこかに存在し、そこからすべてを説明できるという意味ではありません。「絶対無」や「空」という言葉もまた、何かを説明し尽くすための概念というより、言葉では捉え尽くせない根源的な働きへと、私たちの問いを開き続けるための道標ではないでしょうか。“こころ”もまた、同じ意味で用いられる仮の名です。したがって、“こころ”は、言葉や身体、他者、歴史や文化の外側にある超越的な主体ではありません。自己も世界も、身体も言葉も、歴史も文化も含めた多層多次元にわたる関係が、一瞬・一瞬の出来事として立ち顕れてくる。その根源的な働きを、ホロニカル心理学では便宜上、“こころ”と呼んでいるのです。

そう考えると、対話とは、何が正しいかを決めるためだけのものではありません。どちらか一方の言葉へ意味を収斂させることでもありません。互いの言葉を尊重しながら、その奥にある直接体験にも耳を澄ませる。そのなかで、それまで存在しなかった新しい意味を、ともに見いだしていく。対話とは、そのような営みではないでしょうか。

完全には言い尽くせないと知りながら、それでも言葉にしようとする。相手の言葉を聴き、自分の体験に照らし合わせ、また新しい言葉を探していく。そこに、対話の意味があるように思います。

自己と世界との出あいから言葉が生まれ、その言葉によって直接体験が照らし返される。そこから新たな自己と世界との関係が立ち顕れ、その新しい出あいから、また次の言葉が生まれてきます。私たちは、この絶えざる往還を通して、自己と世界との関係を絶えず創り直しているのではないでしょうか。