トラウマの扱い方(1):トラウマを扱う上での留意点

生きづらさをもたらすほどの重篤なトラウマを扱う時に留意すべきことがあります。それは重篤なトラウマ体験を、心因性の問題として身体性から切り離し、トラウマ記憶だけに焦点を合わせ過ぎないことです。そもそも生きづらさをもたらすほどの重篤なトラウマ体験とは、生死に関わるような体験を自己が自己意識に統合しきれず、自己意識から解離・否認することによって生き延びるしかなかった出来事といえます。こうした人生上におきるさまざまな体験を自己の人生に上手く統合しきれない人生が、生きづらさをもたらしてしまうのです。

ここで留意すべきことがあります。自己の意識がトラウマ体験をいくら意識から切り離したり、否認・隔離しようとしても、ロスチャイルド(2000)やヴァン・デア・コーク(2014)らが指摘するように、「身体はトラウマを記録」しています。意識的な私がいくらトラウマ体験を意識しないように記憶から退けても身体は潜在的にトラウマ体験を記憶しているといえるのです。そのため不用意に心的なトラウマ記憶だけに焦点化すると、身体が記憶していたおぞましい過去の体験までもが再び蘇り返り、今・この時が、おぞましい時であるかのように現在を支配してしまいます。そうなると、あたかもパンドラの蓋をこじあけてしまったような事態に陥り、より生きづらくなってしまう危険があるのです。

したがって、トラウマを扱う時は、「身体もトラウマを記録している」ことを常に念頭に置いて対応することが基本となります。トラウマを扱う時には、生きづらくなっている人生の質がより向上することが大切です。そのためには身体のトラウマ記憶を含んで、自己にトラウマ体験をいかに意味づけ直すしていくが重要なテーマとなるのです。

こうした作業は、ホロニカル・アプローチでいえば、より身体性を帯びた自己内我)とより精神性を帯びた自己(外我)が、より一致する方向を共同研究的に協働するという歩みになります。外我がいくらトラウマ記憶を意識しないように打ち消し、否認し、隔離しても、内我は潜在的に非言語的な身体的感覚的記憶として覚えたままにあるといえるのです。そこで、まずは外我を強化し、適切な観察主体が樹立され、かつ今・現在の日常生活の安全と安心が獲得できた後に、内我がもっている潜在的トラウマ体験を安全で安心できる場で想起しながら、外我と内我の対話の中で、新しい人生を生きるための新しいホロニカル主体(理)の発見・創造を支援するという構図になるのです。