自己(個のこころ)と世界(こころ)とのホロニカルな関係

ビックバン前、すなわち無(絶対無とか仏教的な空)から世界が誕生したとすると、私たちの自己も、本来は空なのですが、創造的世界の中の万物の一つとして、あたかも有るかのように見えるような存在ということになります。

創造的世界から生まれた自己(個のこころ)は、自らを産み出した世界(こころ)との出会いを通じて、もともとゼロ・ポイントとして、一つだった自己(個のこころ)と世界(こころ)との分断による不一致をできるだけ一致させようと、自己(個のこころ)の内に世界(こころ)を取り込もうとしながらも、一方では、新たな世界(こころ)の創造にも参加していることになります。

自己と世界の出あいに不一致を意識した途端、はじめて私という意識が生まれるといえます。自己と世界が一致している瞬間には、自己と世界の区別もなく、自己という意識もありません。自己と世界の一致は、後で内省的に振り返った刹那に、自己の意識が生起するのであって、自己と世界が一致している時は、すべてが、「ただ、あるがままにある」だけです。

私という自己意識は、生起したり、消えたりと、非連続な連続を繰り返しているといえます。それが一貫したものに見えるのは、一コマ一コマが本来非連続にあるにもかかわらず、それが連続すると一貫した時間的流れのある映画のように錯覚する現象と似ています。

自己と世界の出会いがあり、その自己と世界が絶えず不一致と一致を繰り返しているのです。そして不一致の時に、直接体験を意識する自己の主体として、自己自身や世界を対象として意識する自己(個のこころ)意識が生起してくるといえるのです。

「人間は考える葦である」で有名なフランスの哲学者パスカル(1623ー1662)は、神のことを、「周辺なくして到る所に中心を有つ無限大の球」と比喩しました。

日本を代表する哲学者西田幾多郎(1870ー 1945)は、パスカルの考えに刺激され、「絶対無の自覚的限定といふのは周辺なくして到る所が中心となる無限大の円と考へることができる」と絶対無のことを表現しました。

パスカルの神や西田の絶対無からすると、自己と世界は、次のような関係にあることに気づかされます。

「それぞれの一点(自己)を中心点として、それぞれの球(世界)が、点の数だけ無限にあり、無限の球(世界)の中には、無数の一点(各自己)がある」という自己と世界の関係への気づきです。

自己(個のこころ)という点には、世界(こころ)という全体が含まれ、世界(こころ)も自己(個のこころ)という点を含むということです。

自己と世界は、相即相入関係、ホロニカル心理学でいうホロニカル関係(縁起的包摂関係)にあるといえるのです。

※自己と世界のホロニカル関係は、理性や知性だけでは把握しにくいかも知れません。体感的なものだからです。しかし、同じようなイメージは、仏教の華厳教でも語られているようですので、関心のある方は、「宝珠の比喩」とか、「因陀羅網」をキーワードにして調べてみてください。