自己とは(3):生死のせめぎ合い

丸高味噌(諏訪市)

自己は、有(生)と無(死)がせめぎ合いながら同一に存在するような絶対無(空)から創造され、かつ絶対無(空)に包まれています。 自己は、誕生以来、有(生)と無(死)という矛盾をはらんだ存在として創造されたといえるのです。しかも自己は、すべての生成消滅の源である絶対無から創造された世界と本来ホロニカル関係(縁起的包摂関係)にあります。そうした関係にあるが故に、自己は世界と不一致となって対立しながらも、その世界を自己自身に一致させよう自己及び世界の歴史的変容を促進しようとし、世界もまた、自己を世界自身に一致させようと世界及び自己の歴史的な変容を促進しようとします。

自覚の主体である意識的自己が無となれば、その刹那、もともと究極的には一としての自己と世界の関係に目覚め、自己=世界となって、すべては「永遠の今」となって実感(ホロニカル体験)されます。無論、有としての身体的自己の死は、自己が「永遠の今」(絶対無)そのものになることです。しかしながら、自己意識が自己及び世界の存在を意識したその刹那、自己と世界は対立し不一致となります。

こうして、自己とは、超個的存在面と個体的存在面が、対立しながら同一にある存在といえるのです。自己とは、存在そのものに生と死の相克を含むものといえるのです。しかしながら、生があるからこそ自己の死があり、死があるからこそ自己の生があるといえます。

実在する世界は、一瞬・一瞬が生成消滅の生死の世界といえるのです。しかも自己には、やがて必ず死がやってきます。それだけに、悲哀に満ちあふれた自己及び世界を一瞬・一瞬、否定しながら、むしろほんの少しで自己と世界が一致するような新しい自己及び世界を創造し続けることが生の意味といえます。

悲哀の満ち溢れる世界にあって、ただひたすら死に向かって無骨に生きること、そのこと自体が創造的に生きることであり、その瞬間・瞬間に、苦悩から救済されることといえるのです。そもそも生・死の相克の中で生きていること自体が何か、新しい自己と世界を創造していることにほかならないと考えられるのです。彼方にあるあの世で往生することではなく、「今・この一瞬」が、「永遠の今」「生死即涅槃」「煩悩即菩提」となり、救われると考えられるのです。