不思議について

世の中は、不思議だらけです。

科学や心理学は、一見、この不思議を明らかにしていく学問のように思われますが、物事の現象の構造や機序や抽象的な法則を学問用語で説明しているだけあって、事の不思議まで、つまびらかにしているわけではありません。

和歌山生まれで、語学にたけ、世界中の書物を読破したといわれる、生物学者にて民俗学者の博識高き南方熊楠(みなかたくまぐす)(1867-1941)は、真言宗の高僧土宣(とき)法竜あての書簡で次のように書いています。

「ここに一言す。不思議ということあり。事不思議あり。物不思議あり。心不思議あり。理不思議あり。大日如来の大不思議あり。予は、今日の科学は物不思議をばあらかた片づけ、その順序だけざっと立てならべ得たることと思う。(人は理由とか原理とかいう。しかし実際は原理にあらず。不思議を解剖して現像団(げんしよう)とせしまでなり。このこと、前書にいえり、故に省く。) 心不思議は、心理学というものあれど、これは脳とか感覚諸器とかを離れずに研究中ゆえ、物不思議をはなれず。したがって、心ばかりの不思議の学というもの今はなし、またはいまだなし。次に事不思議は、数学の一事、精微を究めたり、また今も進行しおれり。」(引用文献:南方マンダラ.著者 南方熊楠.編者 中沢新一,1991.河出書房新社.p23)

熊楠が明治時代に指摘したことは、どうも今日の状況においてもほとんど変化がなく、むしろ学問は不思議な現象を前にして、神秘を畏怖しながらもその不思議を叡智でもって探究する真摯な姿勢をますます忘れてしまったのように思われます。

学究においては、“こころ”の不思議、物があることの不思議、世界があることの不思議、生成消滅の不思議などは、まさに自己の存在自体をならしめている不思議を明らかにしていく作業を、主観と客観を切り離すことなく探究しつづける姿勢を失わないことのように思われます。客観的説明はいくら厳密にされても、事の不思議の主観的感動まで伝えることとは別の次元のように思われます。その上、まだまだ限りなきミクロの世界にもマクロの世界にも広大無辺の神秘が無尽に包蔵されていると考えられるのです。

ホロニカル心理学では、不思議を大切にしたいと考えています。