心理学の立脚点(1)

浄土真宗の開祖親鸞は、歎異鈔(たんにしょう)で、「善人なおもて往生をとぐ,いはんや悪人をや」という悪人正機説を唱えたとされています。

またキリスト教においても絶対的なる神に背いたアダムの子孫である人間は、原罪を背負った存在として扱われ、神の愛のもと神の子として送られて人間の罪を背負って犠牲となったイエス・キリストの教えを信仰することによって救われたとされています。このように宗教は、人間は根源的に罪深き存在であり、自力ではなく神仏の力によって救われるしかないと説くところから出発しています。

ホロニカル心理学も相似的構造を持ちます。ただし、神仏にあたるところを、「IT(それ)」とします。本来、名づけられない個人的な自己の力を越えた絶対的働きを、名づけるしかない矛盾から名づけたものです。

原罪を背負った自己とは、自己が個的な自己であろうとする限り、自己と世界は対立し、両者の間には深き断絶が瞬時において生起し、自己と世界の不一致に個的な自己は苦悩し絶望せざるを得ないことを意味しています。自己が世界に呑まれ一体化することを拒否し、世界に逆らい世界と対立して生きようとすること自体が、自己が原罪を背負うということといえるのです。

しかし個としての自己には必ず死があります。個的自己は永遠の存在ではなく、必ず死すべき運命にあります。自己に生があるということは、自己に死があるということです。そのため、生きている個的自己にとって、世界と一致にするときとは、自己が我(現実主体)の意識を失い世界に身を委ね自己と世界が無境界になって忘我脱魂するときしかあり得ません。忘我奪魂のときだけ、個的自己は自己超越なるものに包まれることができます。

しかし個的自己として生きようとすると、自己と世界の一致の無境界の絶対的世界を自ら否定するしかなく、こうした忘我脱魂の至福は、再び、自ら自己と世界の絶対的世界を否定することによってただちに奈落の底に落ちてしまうのです。

しかしながら人間の自己意識は、こうした自己と世界の不一致と一致の無限の繰り返しの中で、やがてあらゆる現象が自己と世界の一致を求めて絶対的に矛盾しながら変化し続けていることに目覚めていくことができます。

心理学は、こうした事実から出発せねばならないと考えられます。