主観的研究と客観的研究について

ホロニカル心理学では、我(現実主体)にとって、「事物が実存・実在する」という実存的実在感覚(自明性)は、すべての出来事が複雑に絡み合いながら、「一切一挙」が、「過去も未来も含むこの一瞬」に、すべてが「一挙開顕(かいけん)」していることへの気づきによってもたらされると考えています。この気づきの基盤には、自己と世界の出あいの不一致・一致による直接体験があります。直接体験とは、自己と世界の不一致・一致の出あいそのもののことで、「毫(ごう)も思慮分別を加えない」(西田幾多郎,善の研究,1911)、主観的判断や客観的判断の働く以前の体験をさします。

我(現実主体)にとっては、瞬間・瞬間が非連続的に変化する現象世界(直接体験)への気づきが、自己が実存し世界が実在するという実感をもたらしているのです。この事実に覚醒する時、私たちは、生きているというより、生かされていることに自ずと覚醒します。主体が何かを経験しているのではなく、何かを経験している主体があるのです。こうした覚醒時には、我は、もはや「天地一杯の我」となっており、どこからどこどこへといった空間感覚もなく、過去から未来という時間感覚もなく、すべてが永遠の一瞬として、ただあるがままに生き生きと感じられます。本来すべてが、ただあるがままにあることを実感・自覚できるようになると、通常私たちが意識している時間や空間は、厳密には、人間が、考え出しているもの、作りだしている概念であることにも気づかされます。生き生きした永遠の瞬間と、日常生活における時間や空間とは、まったく異なることに気づきます。

言葉(概念)による識別・分別に関係なく、今、この瞬間・瞬間、新たな自己と世界が創り出されている刻々変化する世界が実存し実在する世界といえるのです。

そもそも「実存・実在」という概念自体に、主観的なるものと客観的なるものの両方の意味が含まれています。主観的なるものの中心である観察する主体が客観的なる世界を観察対象として不可分一体となった時の言詮不及の直観を、あえて言葉で心理哲学的に表現すると「実存する」「実在する」となるのです。主観的世界だけでは、自分と世界の区分が融合し、自己も世界も混沌となってしまいます。逆にまた、すべてが客観的世界となってしまっては、主体は世界に呑み込まれ、実感するものが不在となってしまうのです。主観即客観の世界が実存・実在する世界といえるのです。

実存・実在するとは、「特殊なるものが一般的なるものである」こと、「主観的なるものが客観的なるものでもある」ことの実感・自覚といえるのです。

主体にとっては、主観的で特殊なる世界が、他方では、客観的なる一般的世界として立ち顕れてくる時、主体は、自己と世界を同時に実在するものとして実感・自覚することができるのです。観察主体が観察対象を客観的に把握しようとする時は、観察主体は観察主体の主観作用をできるだけ排除し、一般的なるものを識別しようとします。それに対して、観察主体が観察対象を主観的に把握しようとする時は、観察主体は、観察対象に対して感じている観察主体独自ともいえる特殊なるものを明らかにしようとします。

“こころ”の顕れのうち、主観的なるものは、“感じる”という形で可視化不可能な主体独自のものとして直覚されます。“こころ”の顕れのうち、客観的なるものは、身体的な行動、神経・生理学的反応、物理化学的な反応など、記号または数学的表記を含め可視化された一般的なるものとして認識されるのです。

したがって、“こころ”を対象として研究する場合は、どちらか一方に偏ることなく、“こころ”の二面的同一性、絶対矛盾的同一性を受け入れるパラダイムのもので進めていくことが重要となります。主観的研究を重視するあまり、客観的研究を排除しても、またその逆であっても“こころ”の研究から遠のくと考えられるのです。

主観的なるものの研究は、行きつくところ、個体としての“こころ”のかけがえのなさの理解を深める研究になると考えられます。逆に、客観的なるものの研究は、行きつくところ、一般的なる“こころ”の理解を深める研究になると考えられます。そして、両者の関係が、より密接に解明されていくことが、これからの時代の課題といえるのです。