自由無礙の俯(21):ホロニカル心理学のキーワード

ホロニカル心理学が「内的世界「外的世界」というときは、観察する主体から見て、自己の内を観察対象とした時に構成される世界が内的世界であり、自己の外を観察対象とした時に構成される世界が外的世界という意味です。精神分析的な言い換えで言えば、自己にとっての内的対象関係が内的世界を構成し、外的対象関係が外的世界を構成するということです。

ここで大切なのは、内的世界も外的世界のいずれも観察主体と観察対象の関係が内的世界と外的世界の構成に影響を与えることを忘れないことです。

よく観察主体を抜きにして観察される対象世界を客観的世界とし、現実世界と考える人がいます。唯物論的世界観の持ち主です。唯物論的世界観では、観察主体という精神活動はすべて物質からなるとします。また逆に、観察対象となる世界は、すべて観察主体の精神活動によると考える人がいます。唯心論的世界観の持ち主です。しかし、ホロニカル心理学の捉え方は、いずれの立場とも異なります。

ホロニカル心理学では、唯心論であろうが唯物論であろうが、いずれの立場も観察主体が不在では成り立たっていないということです。観察主体を離れては内的世界が認識されないように、観察主体を抜きにしては外的世界は認識されません。しかもいずれの立場も内的世界と外的世界の区別が、観察主体と観察対象との関係が対立的に捉えられていることによります。

歴史的歩みとともに科学的思考に慣れた現代人は、外的世界は自己の存在の向こうに物質活動からなる客観的世界としてあると捉えがちです。が、しかし、ホロニカル心理学では、観察主体である自己を離れた内的世界も外的世界も客観的にあるというよりは、論理的知的に構成された世界と考えています。

観察主体が何を観察対象として選び、しかもどのようなことに価値を持ち、どのような態度で観察するかの差異によって,構成される内的世界も外的世界も、そして内的世界と外的世界の関係すら変化するのが現実です。どのように考えているかで、見ようとするかが制約され、何を見ようとしたように見えてきたものを現実と思い込んでしまうのです。よほど注意していないと、こうした落とし穴に知らずのうちに落ちてしまいます。

例えば、ある不登校状態の子どもがいる時、その要因分析は無限に考えられるのです。いじめが原因、真面目すぎるのが原因、両者の育て方原因、学歴偏重が原因、担任の対応が原因、起立性調節障害が原因、社交不安障害が原因、発達障害が原因・・というように、ある子どもの同じ不登校という現象に対して、観察しようとする人の問題意識の違いの分だけ多層多次元に多くの見立てや解釈が語られます。

ホロニカル心理学では、こうした現実を踏まえ観察主体と観察対象の組み合わせの違いによる見立てや解釈の差異に対して,どの見立てが正しいかどうかの論争に巻き込まれることなく、観察主体と観察対象の組み合わせの差異そのものを俯瞰しながら、どのような組み合わせの観点からどのように対応するときにもっとも適切な変容が可能になるかを俯瞰的に明らかにしていきます。すべての現象をあるがままに受け止めようとします。

観察主体と観察対象の組み合わせによる差異そのものをあるがまま(無批判・無解釈・無否定)に実感・自覚していく行為が「俯瞰」です。そして、「俯瞰」で最も重要なこととしては、「俯瞰には観察主体と観察対象の区別が消融し、両者が無境界となって主客合一の体験時(ホロニカル体験)を含む」ことです。ホロニカル心理学では、「ホロニカル体験」と呼びます。ホロニカル体験の実感・自覚は、認識行為の形式をとらず、直観形式によって得られます。直観とは、当てずっぽうという意味とは異なり、むしろ、まったくその逆の意味で、あるがままに言詮不及の体験としてあるということです。考えられた体験ではなく、感じとられた体験です。

俯瞰とは、観察主体と観察対象が一致するホロニカル体験時から観察主体と観察対象が不一致(A点)と自己違和的体験となって立ち顕れてくる多層多次元な現象世界(B点)を固定的視点から観察するのではなく、観察主体が観察対象のすべてに対して自由に飛翔する力をもった観察主体(C点)から行われる観察行為のことです。しかし、実際には、自己意識の発達や修行でも積み上げないとC点が固定的視点になってしまいます。それ故、融通無碍の俯瞰ができることを、ホロニカル心理学では「自由無礙の俯瞰」と呼びます。

「自由無礙の俯瞰」では、観察主体の不一致・一致を含むすべての現象を「あるがまま」に観察することを大切にしています。

自由無礙を思考実験的に論理展開すれば、次のようになります。観察主体がミクロに向かって極少の点となるとき、すべては観察対象の世界になります。このとき観察対象は無限の球となります。唯物論的客観的世界観となります。その逆に、観察主体がマクロに向かって極大の球になるとき、すべては観察主体の世界になります。観察対象は無限の点になります、唯心論的世界観となります。しかし、いずれの場合も観察主体と観察対象の一致の窮極においては同じ現象のことを意味していることになります。観察主体と観察対象が一致する時の直接体験の世界が実在する世界であり、観察主体と観察対象が不一致になったときの世界とは、厳密には、俯瞰する観察主体が直接体験の世界を再構成した世界です。

実在する自己と世界の一致による実在世界は、俯瞰する観察主体が再構成した世界とは、感覚的には差異があります。この差異が、自己が自己と世界の出あいの不一致・一致の繰り返しの中で、適切な自己組織化を促進する動因となります。そして、俯瞰する観察主体が自己意識の発達によって自由無礙段階に至るとき、多層多次元にわたる現象世界がそのままあるがままの世界となります。華厳思想のいう事事無礙となり、すべてが一即多・多即一となります。