
(以下は、2025.3.1に公開した文章を2027.7.22に加筆・修正したものです。)
ホロニカル心理学の立場からすると、自己も世界の一切合切の存在も、固定した実体として存在しているのではなく、無自性・空(くう)・絶対無を根底として、その都度、その都度、出来事として立ち顕れてくるものと考えます。そして自己という存在が生まれるとは、絶対無を根底とする縁起的関係のなかで、一つの存在が出来事として立ち顕れることであり、死とは固定した実体が消滅することではなく、出来事としての存在が、その都度、絶対無を根底とする生成へと還帰することを意味するのではないかと考えています。
この考え方の背景には、東洋思想に共通する「実在とは固定した実体ではない」という存在理解があります。仏教では、あらゆる存在は無自性であり、他との関係によってのみ成り立つ縁起的存在であると考えます。また、西田幾多郎は、この世界の根底を、あらゆる存在を包み込み、それらが立ち顕れる場所として「絶対無」と表現しました。ここでいう絶対無は、何かを意志的に創造する超越的存在ではなく、有と無、自己と世界、主体と客体など、あらゆる対立が生起する根源的な場を意味しています。さらに、ホロニカル心理学では、この絶対無を静的な「場所」としてではなく、自己と世界とが相互包摂的に同時生成し続ける生成の働きとして理解し直します。
これに対し、西洋哲学では、古代ギリシャ以来、実在を対象化できる実体や本質として捉える立場が長く主流でした。もちろん、西洋思想にもフッサールにはじまる現象学やホワイトヘッドのプロセス哲学など、実体論を超えようとする流れがあります。しかし、ホロニカル心理学は、存在を固定した「もの」としてではなく、自己と世界との関係のなかで立ち顕れる「出来事」として理解する点に特徴があります。
ホロニカル心理学において、自己にとって実在する世界とは、自己と世界とが相互包摂的に同時生成し、絶え間なく展開し続けている根源的な場です。自己と世界は、もともと切り離された二つの存在ではなく、一つの出来事の二つの契機として同時に成立しています。そのため、世界を経験することは、同時に自己が生成することであり、自己が変容することは、同時に世界が新たな意味をもって立ち顕れることでもあります。
私たちは通常、自分を観察主体として、世界を観察対象として経験しています。しかし、深い瞑想や無心の体験、あるいは芸術や自然との深い一体感のなかでは、観察主体としての我が静まり、自己と世界を分ける境界そのものが働かなくなり、主客の区別が一時的に消え、自己と世界とが分かたれていない直接体験、すなわちホロニカル体験が生じることがあります。
このとき消えるのは、意識そのものではありません。消えるのは、「私は見ている」「私は考えている」という反省的な自己意識、すなわち現実主体としての我です。その結果、観察主体としての自己と観察対象としての世界との境界が消え、自己と世界とは一つの出来事として、あるがままに体験されます。そこには、「何かを見ている私」と「見られている何か」という区別はなく、自己と世界とが相互包摂的に同時生成する世界が、そのまま立ち顕れています。
この直接体験そのものの実感は人類に共通する可能性があります。しかし、その体験をどのように意味づけ、自覚し、言語化するかは、外我に内在するホロニカル主体(理)の働きによって異なります。そのため、同じ直接体験であっても、東洋では空や無、無心として語られ、西洋では神秘体験、存在、純粋経験、現象、一者など、多様な概念によって理解されてきました。
ホロニカル心理学では、実在する世界は、このようなホロニカル体験において最も直接的に立ち顕れると考えます。そこでは、多層多次元に分節されていた世界は、一即多・多即一という相互包摂的関係(ホロニカル関係)として実感されます。自己は世界を包み込みながら世界に包み込まれ、世界もまた自己を包み込みながら自己に包み込まれるという相互包摂的関係のなかで、両者は絶えず同時生成し続けています。
したがって、ホロニカル心理学では、実在とは、絶対無(空)を根底として、自己と世界とが相互包摂的に同時生成し、一瞬・一瞬、多層多次元ににわたる新たな出来事を自己組織化し続ける生成の働きそのものであると考えます。