ホロニカル心理学における絶対無(空)と“こころ”

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ホロニカル心理学が、哲学でいう「絶対無」、仏教でいう「空(くう)」について語るとき、「有るものがまったく存在しない」という意味での「有るか無いか」という相対的な有無を区別するための無ではありません。

むしろ、「有る/無い」「自己/世界」「主体/客体」「一/多」といった区別そのものが成立する以前、あるいは、それらの区別を成立させながら、どの一方にも固定されない根源的な生成のを指し示すための言葉です。

したがって、「絶対無がある」と言えば、すでに絶対無を一つの「有」にしてしまいます。反対に「絶対無はない」と言っても、「有る/無い」という識別基準の内部に絶対無を置いてしまいます。

ホロニカル論では、自己と世界、有と無という分節そのものが立ち顕れてくる根底を、哲学でいう「絶対無」、仏教でいう「空」と重ね合わせながら捉え、この根底の場を“こころ”という言葉によって指し示すことができるのではないか、という仮説をもっています。それは、これまでの心理学に見られる心身二元論的な「心」「精神」「個人の意識」といった捉え方に対して、抜本的な転換を迫る仮説でもあります。

しかし、ホロニカル論は「最初に何もなかった。そして、そこから有が生まれた」というような宇宙生成論を主張しているわけではまったくありません。むしろ、有が立ち顕れることと無が立ち顕れること、さらには、その区別そのものが、一瞬・一瞬の出来事として成立していることに注目しているのです。

つまり、「絶対無 → 有」という一方向的・時間的な生成ではありません。絶対無(空)と呼ばれる根源的な場において、有/無、自己/世界、一/多などの分節そのものが、一瞬・一瞬、相即的に立ち顕れていると捉えているわけです。

絶対無(空)に対する重要な批判の一つに、「絶対的な無であるなら、それについて考えたり語ったりすることすらできないのではないか」というものがあります。ホロニカル論では、この批判を素直に受け入れます。

絶対無、空、“こころ”そのものを、私たちは対象として認識することはできません。まさに「言詮不及」です。なぜなら、「私が絶対無を認識する」となった瞬間、「認識する私―認識される絶対無」という主客分離がすでに成立しているからです。対象として認識・識別されたものは、絶対無そのものではありません。それは「絶対無」という言葉によって対象化され、概念化されたものにすぎません。

これは「空(くう)」という語についても同じです。「空」という概念を実体化すれば、それはすでに空そのものではなくなります。同じように、“こころ”という言葉についても同様です。

ホロニカル論で重要なのは、絶対無、空、“こころ”についての知識を所有することではありません。自己と世界が分節される以前の働きが、自己と世界との出あいの直接体験において実感されうるのではないか、という点です。

そして、その体験について後から言葉にするとき、私たちは「絶対無」「空」「“こころ”」などの言葉によって、それを仮に指し示しているにすぎません。したがって、言葉では対象化し尽くすことのできない根源的な場を、これらの言葉によって指し示そうとしているのがホロニカル論の立場です。概念的把握と直接体験とを区別することが、非常に重要だと考えているわけです。

次によくある批判が、無限後退に関するものです。

「有る/無いすら無い」ならば、「『有る/無いすら無い』すら無い」のではないか。さらに、「『有る/無いすら無い、すら無い』すら無い」と続いていくだけで、正当な説明になっていないのではないか、という批判です。

これは、言語の自己言及性、自己再帰性から生じる問題です。絶対無を「あらゆるものを否定した最後に残る究極概念」と考えるならば、この批判から確かに逃れることはできません。

しかしホロニカル論では、「否定→否定の否定→さらにその否定……」という概念運動そのものも、一瞬・一瞬に生成消滅している出来事として、絶対無(空)と呼ばれる場に包摂されていると考えます。

つまり絶対無は、この無限系列の「最後」に置かれる究極概念ではありません。その無限系列そのものが立ち顕れ、また消えていく根源的な場を指し示しているわけです。

この考え方は、仏教思想史における「空の実体化に対する批判」とも重なります。

2〜3世紀頃の大乗仏教の思想家・龍樹に代表される中観思想では、「空」そのものを究極的な実体として捉えてはならないことが徹底されています。「すべては空である」と言ったあとに、「では、『空』という究極的な実在があるのか」と考えるならば、それは再び空を実体化することになってしまいます。いわば「空もまた空である」という方向です。だからこそ、「空」という言葉や概念そのものにも執着しないことが大切になるのです。

同じようにホロニカル論でも、「絶対無(空)」と呼ばれる根源的な場を“こころ”という言葉によって指し示そうとするとき、「絶対無」「空」「“こころ”」という言葉そのものを実体化することへの執着から離れる必要があります。

大切なのは、「絶対無」「空」「“こころ”」という言葉を知ることではなく、自己と世界、主体と客体という分節が相対化される直接体験において、その働きが実感されることにあります。

ホロニカル論では、絶対無(空)を単なる否定や欠如として捉えるのではありません。絶対無(空)と呼ばれる根源的な場において、エス(多様化)とIT(統合化)という相矛盾する働きが相即的に働き、一即多・多即一の森羅万象が、一瞬・一瞬、生成消滅していると捉えます。ここに、ホロニカル論独自の視点があります。

ホロニカル論では、このエス(多様化)とIT(統合化)という相矛盾する二つの働きが相即的に働いている、その生成の働きを「それ」という言葉によって仮に指し示しています。

ただし、「それ」は、世界の背後に存在して森羅万象を動かしている超越的な主体や実体ではありません。「それ」という何かが存在し、その意思によって世界を生成していると考えているわけでもありません。もしそのように捉えれば、「それ」もまた一つの「有」として実体化されてしまいます。

「それ」は、森羅万象が一瞬・一瞬、多様化しながら相互に関係づけられ、生成消滅している、その「働き」を指し示すための言葉です。

森羅万象は、多様化しながら相互に関係づけられ、一瞬・一瞬の出来事として生成消滅しています。その生成の働きを、自己と世界、有と無、主体と客体という分節以前の位相まで遡って捉えようとするとき、私たちはそれを一つの対象として直接認識することはできません。

そこでホロニカル論では、自己と世界、有と無、主体と客体、一と多といった分節そのものが立ち顕れてくる根源的な場を“こころ”と呼び、その場において、エス(多様化)とIT(統合化)という相矛盾する働きが相即的に働き、森羅万象が一瞬・一瞬の出来事として生成消滅している、その働きを「それ」という言葉によって仮に指し示しているのです。

したがって、絶対無(空)、“こころ”、“それ”は、いずれの言葉も世界の背後に存在する実体を意味するものではありません。絶対無(空)と“こころ”は、自己と世界をはじめとするあらゆる分節が立ち顕れてくる根源的な場を、それぞれ異なる思想的文脈から指し示す言葉であり、「それ」は、その場においてエスとITが相即的に働き、一即多・多即一として森羅万象が一瞬・一瞬に生成消滅している「働き」を指し示す言葉なのです。