共感困難の大切さ

ホロニカル心理学では、自己の始まりを次のように考えています。

「自己は、地獄の体験から始まる」です。自己にとって、世界(他者を含む)との一体感が破れ、自己と世界不一致となり、共感してもらえないという憤怒から始まると考えられるのです。出産直後の産声が、まさにそのもっとも代表的な憤怒です。世界との誇大的万能的一体感が破れてしまい、その自己愛の傷つきによる憤怒が産声と考えられるのです。

稲妻のような断絶によって天国が引き裂かれ、統合的な一体感が打ち破られ、地獄を実感する時が、原初の自己の意識の始まりと考えられるのです。自己の誕生前とは、自己も世界の区分もない無境界であり、それ自身がそれだけで固有の本質をもつものなど、なにひとつなかった無自性のまさに天国だったのです。すべてが無自性で一だった天国を破る形で、自己が誕生するのです。だから自己の始まりは、自己が原初の意識をもった瞬間、天国からの地獄への転落を意味するのです。自己と世界が不一致の瞬間、自己意識が創発されるのです。

ホロニカル心理学では、自己意識の誕生前は、無自性の「絶対無」「空」と考えています。

したがって自己は、自己誕生以前の意識(「我(現実主体)」という固有意識のない状態)にでもならない限り、「我」に執着する意識が、この世において、世界や他者によって共感され、融合一体感を希求している限り、誰からも完全なる共感を得ることは叶わず、また誰かを共感することもできず、絶望するばかりと考えられるのです。我が我の意識に執着している限り、誰からも“こころ”から共感をしてもらえることなどなく、自己と他者の身体的自己の溝の深さを、より実感・自覚するばかりで、無限の地獄の世界に墜落していくことになるのです。

深く人に共感を求める貪欲な人ほど、共感は得られず絶望し憤怒し、さらに地獄に転落します。逆に、深く人を共感しようと固執する人は、どこまでいっても共感しきれない自分自身の罪深さに絶望し、さらに地獄に転落することになるのです。

「共感は、するものでもなければ、求めるものでもない」と考えられるのです。「共感はしなければいけないもの」といった理解では、かえって絶望か罪悪感に苛まれるばかりになるのです。

共感は、苦悩し絶望する人のいる場において、自己と世界(他者)との一致に執着する我を忘れた途端、生きている場所から自ずとやってくるものなのです。地獄を共に見るもの同士が、地獄という我の絶望の限界によって我を忘れる時、そこに我の意識を超えたところにいつも命を育む天国(絶対無)に包まれていたことに覚醒することができるのです。同じ場所に生きる者同士が共時的に共振・共鳴する現象が共感なのです。我の意識が、必死に共感や一致を求めずとも、一切合切は、すでに一であり、すでにつながっており、場所そのものが絶対無(空)の場に包まれてあることに目覚めあうことが共感なのです。生死の世界を創造する場ともいえる絶対無(空)を媒介として、生死の世界に傷つきながら必死に生きようとしている者同士が、共振れを起こした時が共感と言われるのです。共感とは、我の意識によらない、無為の作業として、自ずと創発されてくる現象といえるのです。

心理学を、我の意識からはじめ、かつ我が、自己と他者が共感することを理想とするところから始めることは、とても危険なことと考えられるのです。むしろ生きた心理学は、自己と世界の不一致の絶望と自己と世界の一致の天国を共に等しく扱うことから始められることが大切と考えられるのです。