「ただ観察」(3)

8月の上高地

面接中、被支援者が、なんらかの事柄について語っている時に、とても強い不快感を伴う否定的思考やトラウマ記憶を想起しだしてしまって興奮気味になって過覚醒状態になったり、逆に抑うつ気味になって低覚醒的になったりした場合には、そうした視野狭窄的な状態に陥ってしまっている時の身体的自己の感覚そのものを 「ただ観察」することを求めると、ほどよい覚醒の回復のために有効な対応となります。

「ただ観察」を求める時には、何かをしようとしたり、判断しようとしたり、解釈しようとするような一切の行為の停止または保留を求め、ただひたすら“観察”することを求めるのがポイントです。もし、言葉でもって何かを意識したり、識別すると、観察対象そのものを直観することから遠のいてしまいます。

思考を一切やめ、できるだけ感覚運動的な身体反応に集中していると、「今・ここ」で起きている現象そのものを観察主体が実感・自覚していくことを可能としていきます。すると、身体感覚的が刻々変容していくプロセスが明らかになってきます。例えば、胸のあたりにぽっかり穴のあいた身体感覚のプロセスにしたがっていると、やがて黒い雲のようなものに変容し、それがさらに霧雨のようなイメージに変容し、やがて涙が出てきて、その後、胸の穴が自ずと塞がるといった現象が起きてくるのです。感覚運動的という身体性に焦点化し、そうした感覚運動に観察主体が、適切な心的距離を保っていると、次第に身体がほどよく落ち着き、それに伴って気分も安定し、そ心地よさを自己照合の手がかりにして思考の変容すら可能となっていきます。

「ただ観察」を促進するために、<何か変化がわかってきたら教えてください。それは何か形のようなものがありますか、それは重そうですか軽そうですか、それは動きますか・・・動くとしたら、どのような動きのようですか・・・>というように身体の感覚運動の明確化または増幅・拡充を図ります。そのようにすることで観察主体が、観察対象から適度の心理的距離を保てるようにします。すると自ずと、呼吸は落ち着き、脈も血圧も安定してきて、“こころ”の内・外の出来事に注意を払うことが可能になってきます。

もし万が一、「ただ観察」が、上手くいかず、より視野狭窄的になっていってしまった場合には、逆に、積極的に、身体感覚がより心地よくなる観察ポイントを探しても同じ効果が得られます。大切なことは、感情や認知の変容に焦点化するのではなく、「ただ観察」では、身体感覚の安定化に焦点化していくことです。

ほどよい覚醒状態が確保(B点)できたら、今度はあえて、最初に強い不快感を伴った否定的思考やトラウマ記憶(A点)との直面化を求めます。通常、「ほどよい観察可能領域」にいつでも復帰可能な限り、この行ったり・来たり(A点とB点)だけで、陰性の感情は軽減化し、否定的思考も肯定的方向に変容し、トラウマ記憶もその感覚が遠のき薄まってきます。そこで、体験の差異の明確化と血肉化を図るために、「ただ観察」実施後と実施前の身体感覚の差異を主観的尺度によってスケール化することで、その差異の実感・自覚を増幅することが可能となります。気分は感覚運動的な身体と深く結びついています。その感覚運動的な身体の安定化は、気分の安定化に直結し、気分の安定化は思考内容の変容をもたらすからです。

次に、症状が和らいだ否定的思考やトラウマ体験に焦点化し、どのような動きをしたり、どのようなことを思うと、感覚運動的な身体的自己がより安定化していくかの「ただ観察」を求めます。否定的思考そのものやトラウマ体験そのものを変容させようとするのでなく、感覚運動的な身体感覚の安定化の方を優先するのです。「鉛のような重さで、どんよりとしネバネバした感じ黒い雲のようなもの」が、「より軽くなり、ネバネバ感が少しでも減り、黒が変化していく」ような方向を、あれこれと模索してもらうのです。観察主体と観察対象の緊密な関係をさらにメタ認知的に観察してもらうことで、少しでも被支援者が望む未来の方向を自らが求めていくことを可能とする「ただ観察」の観想方法の内在化を促進しているのです。

少しでも被支援者が求める方向の観察主体と観察対象のよりよき関係の実感・自覚が促進されたら、スケール化などによって、再び、差異の実感・自覚の血肉化を図っていきます。