場所的自己(14):場所の自己限定

哲学者西田幾多郎デカルトを次のように批判します。「『スム(我有り』といふのは所謂実体と言う如くに主語的に有るといふことではなく、場所自身の自己限定の意味に於いて有るといふことでなければならない、瞬間的今が今自身を限定するといふことでなければならない」

自己は、主語的に存在するのではなく、の自己限定を受ける自己が、自己が自己自身について何かを語ったり、何かを振る舞うことによって、自己自身を自己表現するところに場所的に自己が生成されると語るのです。

したがって、主語的自己は、場所的に生成される自己をありのままに自己表現しない限り、場所的自己と常に不一致の関係に陥ることになります。

この時、ホロニカル心理学の概念で換言すれば、主語的自己とは現実主体のことであり、場所的自己とは直接体験といえます。またこの時、主語的自己は二つの働きに分かれます。場所的自己を直覚するのが内我であり、場所的自己を識別分別するのが外我です。

場において場所的自己は自己として場(世界)に出あい、場(世界)をあるがままに実感するものとして場所的自己が生成消滅されているわけです。

場所的自己とは、「今・この一瞬」に畳み込まれている一切合切をあるがままに自己が直覚すると言うことです。しかも場はすべての出来事が生成消滅するところであり、無限、絶対、永遠の絶対無が、有限、相対、時間と空間と絶対に矛盾しながら同一にあるところです。

しかしながら、場所的自己は、永遠なる自己と世界の一致に触れながらも場所的自己が自存自立した自己たらんとすると、自己と世界が不一致になることを避けることができず、その結果、自己が世界との不一致に際して、自己と世界の一致を求めてまた新たな自己を自己組織化するしかなくなります。こうして自己が、自己と世界との一致を求め、真の自己たらんと欲することが生きることといえるのです。

場所的自己は非連続的な連続体であり、刻々変容する動的プロセスそのものです。こうした場所的自己の非連続な差異を内我が直覚し、理を自らに内在した外我が識別・分別しながら秩序化することによって、自己は自己同一性を保ちながらも自己と世界の一致を希求して自己組織化しているわけです。

<参考文献>
西田幾多郎全集,第 6 巻.167。