働くことの意味

四天王寺のお盆風景

自立とは、「自分で稼いだお金で生きることだ」と考える人たちが沢山います。「金銭的に自立し、社会に迷惑をかけないのが当然だ」という信念や倫理観に基づきます。社会・経済システムの変遷の中で、生きることは、金銭を得るために働くという意味に限定され、働くことの意味が、労働による生産物の金銭的価値として商品化されだした頃から、無意識のうちに出てきた観点と考えられます。

しかし人は、一度、重篤な病気・障害を背負ってしまうと、他人や社会の助けでもない限り、生活費の全てを自力で稼ぐことは困難になります。そのため金銭的自立を当然の価値として内在化していた人ほど、回復不可能な病気、障害、不本意な失業、老齢化など自力で収入を得ることが困難な立場に陥ると、信念を変容でもさせない限り、信念が自己再帰的に跳ね返ってきて、自己の存在価値をたちまちのうちに見失ってしまうことになります。

人々に金銭的自立ばかりを求める自己責任社会とは、人々の潜在的不安をあおり、お金を稼ぐことばかりに必要以上に人を駆り立てます。人や社会からの援助を受ける立場になることは、人生のチキンレースからの転落を意味する不安と恐怖をもたらします。

そうした臆病者にならないためには、そこまでには決して至らないという根拠なき自信や過剰な自尊心によって自分を支えるとともに、生活保護を受ける人やホームレスになる人を無視するか、軽蔑するか、存在自体を否認しようとします。

共助や公助以上に、自助による金銭的自立を強調する社会とは、いざという時には、人々や社会は自分を決して守ってはくれないだろうという不信と警戒に基づく社会を形成します。「いざという時には、私たちがいるから大丈夫だよ」という安全感・安心感を抱ける社会にはなっていないわけです。

人は動物的存在であるとともに社会的存在ですから、人にとって自らの存在が社会的に価値があるかどうかは。まさに死活問題といえます。「幾ら稼いでいるか」「将来、有能な稼ぎ手になれるかどうか」だけに人の存在の価値を見定め、「稼ぐ見込みのないもの」は社会的価値がないという風潮の社会は、なんらかの事情で、自己責任と自助努力で金的的自立を果たせない人にとっては、まさに「社会的な存在としての死活問題」に直結することになるわけです。

しかしながら次のような物語があるのも現実です。
1歳前の髄膜炎が原因でその後、重度心身障害になった娘を、ずっと40年以上育てきた年老いたある母親がいました。母親は娘との壮絶な人生について、とつとつと語ります。

母親は、「これまでに何度もこの子の首を絞めかけた」というのです。しかしその度に、「この子は本当にとても悲しい目で、じっと私のことを見るんです。そして悲しい目で見つめられる度に首を絞めるのを思いとどまってきたんです。するとこの子はすべてのことがわかるんでしょうね。思いとどまると、うっすら微笑むのです」「煩悩だらけなのは私の方なんですね。何度もこの子に救われてきました。この子は私の仏様なのです」。

「言葉のない神様・仏様」がいるならば、「生きていることが働くこと」といえるのではないでしょうか。

 

※ホロニカルマガジンの「カテゴリー一覧」の「閑談」では、ホロニカル心理学のパラダイムら生まれたエッセイを掲載しています。