あるがまま(4):生死のせめぎ合いの世界

自己を超えた次元」「自己の深みの次元」を強く希求した末、出あうものは、暗闇の世界の恐怖でも、光に満ち溢れる世界への驚嘆でもなければ、「すべてが、ただそのまま生死となってせめぎ合っているあるがままの世界」です。「暗闇の世界」も「光に荘厳された世界」も、我の自己意識のなせるイマージュの世界に留まった状態といえます。我を捨ててイマージュの世界を突き抜けたとき、すべてが「あるがまま」となります。

「自己を超えた次元」「自己の深みの次元」の極みは、別に極楽浄土でもユートピアでも地獄でもなく、「すべてが生成消滅のあるがままにある」ことへの実感・自覚といえるのです。自己が忘れられ、自己自身が無限の点や無限の球になった瞬間に、目の前の世界が無常の生成消滅のあるがままの世界となるのです。

とはいえ、すべての出来事に我を忘れようとして、非政治的、内面的、観想的な側面を強め、個性化の探究が現実世界を厭離したり、人類普遍的な人格的な陶冶を目覚めさすような修養的なものだけになりすぎることは危険です。その反対に、我に執着しすぎて、すべての出来事が政治的、外面的、運動的なものになりすぎたり、人格的陶冶を捨てて虚無的な生き方に陥ることも危険です。

人は、生きている場所を遙かに超えた「無常の世界」に覚醒したとしても、他方で一切合切の矛盾を背負いながら苦悩する存在といえます。こうした絶対的な矛盾を抱えて生きるからこそ、自己と世界の不一致による自己違和感が、ほんの少しでも一致する生き方を求めながら、より適切な自己と世界を自己組織化しようとすると考えられます。