
対人援助において、理論や技法はもちろん大切です。しかし、長く人と向き合っていると、どうしてもそれだけでは届かないものがあると感じます。むしろ、支援者自身が、身心一如に向かって、少しずつ自然体に近づいていくこと。自分自身に対して、少し楽になっていること。てらいがなく、不完全な存在であることにも、どこか率直でいられること。そうしたあり方が、理論や技法以上に、対人援助の土台になるのではないでしょうか。
支援者は、被支援者を一方的に正す人でも、治す人でもありません。かといって、被支援者の苦悩に巻き込まれ、一体化してしまえばよいわけでもありません。苦悩をもたらしている出来事を、少し離れたところから、ともに俯瞰してみる。そして、今ここで、ほんの少しでも生きやすくなる方向はどこにあるのかを、一緒に探していく。そのような姿勢が、やはり大切なのだと思います。
支援者もまた、完全な存在ではありません。支援者自身もまた、自己と世界との関係の中で揺れ、迷い、ときには苦悩する存在です。だからこそ、支援者が自分の苦悩をどのように扱っているのか。自分自身の不完全さや戸惑いと、どのように付き合っているのか。そのあり方は、言葉にしなくても、どこかで被支援者に伝わっていくのではないでしょうか。
支援者が無理に強くあろうとしたり、正しさの側に立とうとしたりすると、その緊張は場に顕れます。反対に、支援者自身が少し自然体でいられるとき、被支援者もまた、少しだけ呼吸がしやすくなることがあります。それは不思議なことですが、支援の場では、そういう同期現象が確かに起きるように思います。
支援者が楽になることは、支援者だけのためではありません。支援者と被支援者との出あいは、支援者自身が支援者と世界との関係において、少しでも自然で、無理のないあり方に近づいていくことを意味します。そうした支援者のあり方が、そのまま被支援者との関係にも影響していっていると思われるのです。
支援者が被支援者との間で、できるだけ自然体でそこにいられるように、一瞬・一瞬を生き抜く感じです。それは何もせず、見守るという意味ではありません。苦悩を共にしながら、その苦悩が少しでも和らぐ方向を、具体的に探究し続けるというニュアンスです。
そこにあるのは、支援者と被支援者のどちらか一方だけが変わる関係ではありません。
被支援者が変わるとき、支援者もまた何かを問われ、少しずつ変わっていくと長年の経験を通じて明らかになってきた感覚です。支援者が少し自然体になるとき、被支援者にもまた、生きやすさの余地が生まれてくるといった展開が支援の場から立ち顕れてくる感じです。
そういう意味で、対人援助とは、支援者と被支援者がともに変容していく営みだと、最近では、つくづく実感・自覚するようになってきています。
もちろん、理論や技法は必要です。しかし、それは人を分類したり、操作したりするためのものではありません。理論や技法は、支援者がより自然体でそこにあり、さまざまな被支援者と共に苦悩を俯瞰し、生きやすい方向を探していくとき、自ずと支援者自身にとっても、最も自然体になる方向のものだけが身についてくるように思われるのです。
理論や技法だけの習得にとらわれてしまうと、大切なあり方を見失うことがあります。
言葉だけが立派になり、その言葉が生まれた背景や意味が失われてしまうか、理論や技法だけが魔術のようになり、権威主義的な形だけのものになってしまいます。だからこそ、理論や技法は、常に「自分は何のためにこれを用いているのか」と。「あり方」を問い続けるところに発見・創造されてくると思われるのです。
対人援助の理論や技法は、数えきれないほどあります。その中から、どれが正しく、どれが間違っていると決めようとすること自体、すでに問題になる態度の可能性があります。むしろ大切なのは、支援者と被支援者が、共に、少しでも生きやすくなる方向にしっかりと役立つかどうかではないでしょうか。
支援者自身が、自分にとって腑に落ちる理論や技法を、自分の血肉として取り込みながら、必要に応じて統合していく。その力こそが、支援者のあり方なのかもしれません。しかも被支援者と支援者が、ともにごく自然な摂理にしたがって生きている実感・自覚をもっているのか、少し生きやすくなる方向が必ずあります。理論も技法も、本来はその方向に向かって深化していくものだと思います。その意味では、あり方と理論・技法は、どちらか一方だけで成り立つものではなく、車の両輪のようなものといえます。
対人援助とは何か。支援者である自分は、今ここで、どのように存在しているのか。この人とともに、どのように苦悩を見つめ、どのように少し楽になる道を探しているのか。その問いを、対人支援者は自分自身に向け続けること。結局のところ、対人援助において最も大切なのは、その問いを手放さない姿勢なのではないかと思います。