
子どもが不安定さを抱えている場面に出会うと、私はいつもある感覚にとらわれます。
「安定とは、そもそも誰のものなのだろう?」
「揺れとは、子どもの内側だけにあるのだろうか?」
そんな問いが、ふと浮かんでくるのです。
子どもの気持ちや世界の感じ方が大きく揺れるとき、その揺れに周囲の大人たちが巻き込まれてしまうことがあります。すると、家庭や学校、施設といった“場”そのものが揺れ始めます。そして、場の揺れが、今度は子どもの揺れをさらに大きくしていく。そうした負のスパイラルを、私は支援の現場でしばしば目にしてきました。
このような現象を前にすると、私は、「不安定なのは子どもというよりも、子どもを取り巻く人々を含めた“場”そのものなのではないか」と、つくづく考えさせられます。
場そのものの安定化を忘れ、問題の原因を子ども個人や特定の誰か、あるいは一つの出来事だけに帰属させようとすればするほど、かえって関係が硬直し、場全体が不安定になり、ますます状況が荒れていくことがあります。特に、まだ発達の途上にあったり、安全で安定した関係性を十分に経験できてこなかったりするために、「自己」と「他者」、「意識」と「無意識」、「現実」と「幻想」、「内側」と「外側」など、内的世界と外的世界との境界が、成人ほど安定して分節化されていない子どもたちと向き合うときには、なおさらです。
そのような子どもに対して、大人は、とかく子ども自身に、内的世界と外的世界との境界を明確にすることや、自分の状態を理解することを求めがちです。しかし、その前に、大人の側がすべきことがあるのではないでしょうか。
それは、子どもの混乱や曖昧さ、そして揺れそのものを、そのまま受け止めることのできる、安全で安心できる、一貫性のある場をまず保障することではないでしょうか。私は、どうしてもそのように考えてしまいます。
ここでいう「一貫性のある安定した場」とは、何も起こらない静かな場という意味ではありません。子どもが怒ったり、泣いたり、混乱したり、大きく揺れたりしても、その揺れを排除せず、同時に周囲の大人たちまでがその揺れに呑み込まれてしまわない場です。言い換えれば、一貫性のある安定した場とは、揺れない場ではなく、揺れを包摂することのできる場なのです。
そして、その「場」もまた、固定された環境として最初から存在しているわけではありません。子どもと大人、大人同士、家庭と学校、施設と関係機関などが関わり合うなかで、一瞬・一瞬、生成され続けている関係の場なのだと思います。
私は日頃、その場に常時いるわけではなく、ケースカンファレンスやスーパービジョンという形で支援に携わることが少なくありません。だからこそ、日々の切迫した出来事から一定の距離を取りながら、場全体を俯瞰して見ることができる場合があります。すると、ある一人の子どもの行動だけを見ていては気づきにくい、子どもと大人、大人同士、家庭と学校、施設と関係機関などの間に生じている相互作用や、複雑な要因が絡み合って生まれている悪循環のパターンが、少し違った角度から感じ取れることがあります。
そのような経験を重ねるほど、境界が混迷しているように見える子どもを、ただ個人の病理として理解するだけでは十分ではないのではないか、と感じるようになりました。むしろ、その子どもの揺れを包み込むことのできる、より安定した場を構築することのほうが、場合によっては優先されるのではないかと考えられるようになったのです。
そして、この問いは当然ながら、子どもと関わる大人の側にも向かいます。子どもを安定させようとする以前に、私たち大人自身が、どれほど自らの揺れに気づきながら、“世界との関係”を安定して保つことができているのでしょうか。
子どもの怒りに、大人が怒りで応じる。
子どもの不安に、大人が不安で巻き込まれる。
子どもの混乱を前にして、大人同士が互いを責め始める。
そうなれば、子どもの揺れは個人の内側にとどまることなく、場全体へと広がっていきます。そして、その場の揺れが再び子どもへと戻り、さらに子どもの不安定さを増幅させていきます。つまり、子どもの揺れ→ 大人の揺れ→ 関係の揺れ→ 場の揺れ→ 再び子どもの揺れという悪循環が生まれていくのです。
反対に、子どもが大きく揺れていても、その揺れを受け止めながら、大人たちが一定の落ち着きと関係性を保つことができれば、子どもは少しずつ、その場の安定感を自らの内側へ取り込んでいくように見えます。「自分は今、怒っている」「自分は今、とても不安になっている」「さっきの自分は、かなり揺れていた」と、自らの体験そのものを少し離れたところから眺められる瞬間が、少しずつ生まれてきます。すると、子どもは自分の揺れそのものと一体化するだけではなく、その揺れを一つの出来事として観察し、そこから少し距離を取り、自分でこれからの方向を選び始めることができるようになります。
私は、この過程をとても大切に考えています。場の安定が、関係の安定を生み、その関係の安定が子どもの内的世界へ包摂され、自らの揺れを俯瞰する力へと変わり、やがて自ら方向を選択する力につながっていく。
言い換えれば、場の安定→ 関係の安定→ 安定感の内在化→ 自らの体験を観察する力
→ 自分で方向を選択する力という生成的な循環が生まれていくのです。
分析、洞察、内省という営みは、単に外から教え込まれるものではありません。むしろ、自分の揺れを安心して揺れのまま経験することのできる場があり、その場にある一貫した安定性が自己の内に少しずつ包摂されていくことによって、初めて、自らの体験を少し距離を置いて観察する余白が生まれてくるのではないでしょうか。
心理社会的支援の実践の中から誕生し、内的世界と外的世界を共に扱おうとするホロニカル・アプローチでは、このような「場」の持つ意味をとても重視しています。子どもの内的世界だけを見るのでもなく、外的環境だけを見るのでもありません。子どもと大人、家庭と学校、施設と地域、そして社会そのものが互いに影響し合いながら、一瞬・一瞬の出来事を生成している。その相互作用の中に、子どもの「揺れ」もまた立ち顕れていると考えます。
そう考えると、一人の子どもの不安定さは、その子どもだけの問題として存在しているのではなく、その子どもを包む関係や場、さらにその背後にある社会の揺れとも、どこかでつながっているように思えるのです。
現代社会は絶えず変化し、価値観はますます多様化し、家族や学校、地域社会のあり方も大きく揺れ動いています。その社会の揺れが家庭の揺れとなり、家庭や学校の揺れが大人たちの揺れとなり、その揺れがさらに子どもの世界へと伝わっているのではないでしょうか。
そしてまた、子どもの揺れそのものが私たち大人を揺さぶり、家族や学校、施設、そして社会のあり方を問い返しているのではないでしょうか。
一人の子どもの揺れの中に、家族の揺れがあり、学校や施設の揺れがあり、そして社会の揺れまでもが映し出されている。そう考えると、「この子をどう安定させるか」という問いだけでは、やはり足りないように思われるのです。子どもの揺れを止めることではなく、その揺れを安心して包摂できる場をつくる。そして、その場の安定が、やがて子ども自身の内なる安定へと包摂されていく。そのような観点に立つならば、私たちが問うべきなのは、「この子をどう変えるか」ではなく、「私たちは、この子の揺れを安心して包摂できる、どのような場を共につくることができるのだろうか」という問いなのではないでしょうか。
そこから心理社会的支援が始まるのではないか。そんな根源的な問いが、今も私の中で続いているのです。