
現代人は、”こころ“との対話を忘れ、情報との対話ばかりに時間を費やすことが増えて来ているように思われます。
AIやSNSが加速度的に発達した現代社会では、私たちは、錯綜し喧騒ともいえる多様な論評や価値観など、絶え間なく流れ込む情報に日々さらされています。その結果、現代人は自己自身の”こころ”との対話よりも、外部の情報との対話に多くの時間を費やすようになってきています。
そのような高度情報化社会のなかで、現代人は、知らずのうちに、外的世界の情報を判断や生き方の基準とする「外我」(ホロニカル心理学の概念)が優位になりやすくなっています。その一方で、他者との対話を通して自らの内的世界や「内我」(ホロニカル心理学の概念)と向き合い、“こころ”との自己照合を行う機会は、次第に失われつつあるように思われます。
もちろん、外我そのものが問題なのではありません。外我もまた、社会の中で生きる私たちにとって欠かすことのできない働きです。問題は、外我が内我との対話を忘れ、自己と世界との出あいの不一致・一致として生起する直接体験との自己照合を失い、外的な評価や価値基準だけを拠り所として生きるようになることにあります。これでは、自分にとって本当に腑に落ちる主体的生き方を見失いやすくなってしまいます。
生産活動、創作活動、芸術活動、スポーツなど、人が本来の生命力を発揮し、創造性豊かに生きるためには、自らの“こころ”との自己照合、すなわち、自己と世界との出あいのなかで生まれる直接体験との対話が欠かせません。
もちろん、そのような自己照合は容易ではありません。そこでは、自分自身の脆弱さや不安、恐れ、葛藤など、これまで見たくなかった自己の影とも向き合うことになります。しかし、外的世界の情報や理性的判断だけを人生の指針として生きようとすると、忘れられた内我や影の働きは次第に強まり、かえって生きづらさを深めてしまいます。
光あるところには、必ず影があります。影もまた、自己と世界を構成するかけがえのない一面です。それだけに、影を排除するのではなく受け入れ、統合していくことは、より全体的な自己と世界へと開かれていく歩みにほかなりません。
ホロニカル心理学では、その根底には、“こころ”という「それ」としか呼びようのない根源的な働きがあると考えます。“こころ”とは、哲学でいう絶対無、仏教でいう空(くう)に相当する働きであり、自己と世界を一瞬・一瞬、出来事として同時に立ち顕れさせる根源的な働きです。
したがって、真実は自己の内面だけにあるのでも、外的世界だけにあるのでもありません。自己と世界との関係のなかで生じる不一致と一致、その両方を包摂する直接体験に絶えず自己照合していくことが、その人自身にとって本当に腑に落ちる生き方を発見し、創造していくための重要な手がかりになると考えられるのです。
この営みは、決してスピリチュアルな探究ではありません。むしろ、自己と世界との現実的な関係を見つめ直し、その人にとって最も生きやすい関係性を発見し、創造していくための、きわめて実践的な営みです。
“こころ”を信じて生きるとは、精神的な理念や知識だけを人生の指針とすることではありません。身体感覚や感情、直観を含む足元の身心一如の直接体験を大切にしながら、“こころ”との自己照合を重ね、自己と世界との関係のなかで、その都度、自分にとって最も腑に落ちる生き方を実感・自覚しながら創造していくことなのです。