お知らせ

現在、新規の方の相談を受け付けるための空きがありません。大変ご迷惑をおかけしますが、また時期をみてお問い合わせください。

なお、カウンセリングにはタイミングが大切ですので、もし、お急ぎの場合は、下記サイトをご参照にされるなどして、他の相談機関に一度お問い合わせください。

参考サイト
①当室ホームページリンク集の心理相談室等
    http://kokoro.racoo.co.jp/link
②社団法人日本臨床心理士会のホームぺージ: 臨床心理士に出会うには
    http://www.jsccp.jp/near/

注1)心理相談室“こころ”のカウンセリングは、心理的悩みや問題に対して、来談者ご自身が、“こころ”の内的世界や外的世界を見つめ直すことによって、より生きやすい人生を創造的に歩んでいけるように、臨床心理学的方法によって支援するところです。

したがって、医療機関のように、「治療」や「治す」ことを目的としておりません。当室のカウンセラー(臨床心理士)は、あくまで来談されたご自身の「こころとの対話」による自己理解や生き方の整理のためのサポーター役とご理解ください。また、精神科や心療内科などの医療機関に通院の場合は、カウンセリングの適否について、主治医の了解を必要とします。

注2)初回面接は90分ほどかかり、料金は10,800円となります。初回面接後、もし継続となった場合は、初回面を実施したカウンセラーが、そのまま担当し面接日時も初回面接を実施した曜日と時間帯をそのまま継続するのが原則です。無論、1回で終了したり、しばらく様子を見る場合もあります。

注3)ご不便をおかけしますが、日祝日・出張中・面接中は、電話に出ることができず、留守録対応となっています。留守録対応の時は、その都度、連絡可能時間帯等を案内していますので、ご参照ください。

心的現実と客観的現実

「心的現実」は、「直接体験」そのものではありません。「直接体験」は、瞬間・瞬間が非連続的に生成消滅する現象世界のことです。「直接体験」の世界は、窮極的には、量子論の描くように瞬間・瞬間が生成消滅する世界であり、諸行無常の世界であり、ヘラクレイトスの説く万物流転する世界であり、一時も静止することなき無常の世界なのです。

こうした「直接体験」に対して、「心的現実」とは、俗に私たちが「経験」と呼ぶものに当たります。実は、「経験」に基づく世界は、多くの人が考えているような「客観的世界とは実は異なります。「心的現実」の世界とは、非連続的連続を繰り返えす直接体験の断片同士が、融合・排除・抑圧・加工などのプロセスを経て再構成された「心的世界」のことなのです。「経験的世界」とは、刻々創り出されている「心的世界」のことなのです。「心的現実」は、主観性の関与を排除しきれない「心的世界」ですから、人が異なると、たとえ同じ場所、同じ時間に、同じ出来事に出会ったとしても、異なる心的現実が構成されるのです。どちらが正しい客観的現実を語っているかと、多くの人が、とても激しい対立になるのも、実は、こうした心的現実の差異が根底にあるためと考えられます。
もし私たちが、もっと「客観的現実」や「あるがまま」の世界に迫りたいと願うならば、主観的なるものが働くのをできるだけ排除する必要があります。

この時、二つのアプローチがあります。一つ目のアプローチは、観察主体が、できるだけ観察対象から離れ、より全体が俯瞰できるような視点になることです。自己と世界の両方をより全体的に包摂するような無限の球のような自己超越的視座となることです。西洋では、中世時代までは神の視座であり、デカルト・カントなどの哲学を経て確からは近代科学の視座といえます。そして二つ目のアプローチが、観察主体(我)の働きを、無限に小さくし、できるだけ窮極の小さな点に収斂するようにするなど、観察主体を無にする方向を探究しながら、すべてを「「物となって考え、物となって行う」(西田幾多郎)のように事物をあるがままに直覚する方向です。東洋的な瞑想にみられる方法といえます。

自己にとって、「自己と世界の出あい」そのものは、生命力あふれる動的体験です。そうしたアクチュアルな体験が、生きているという実存的感覚を自己にもたらしています。ホロニカル・アプローチでは、「ホロニカル体験」と呼ぶ、自己と世界の不一致と一致を含む一致の体験のことです。こうした「ホロニカル体験」そのものは言詮不及の体験といえます。

もっとも客観的な世界とは、「ホロニカル体験」と考えられます。ホロニカル体験時以外は、観察主体である「我」が、観察対象である自己や世界の出来事そのものからは分断され、主観性を帯びた色眼鏡で世界を再構成してしまうことを排除できないからです。 ホロニカル・アプローチでは、観察主体が、無限に拡大する自己超越的な球体的アプロートと、逆に無限に収縮して自己超脱的な点(ゼロ・ポイント)となるアプローチは、一見、相矛盾しながら同一の結果になると考えています。無限に収縮する点と無限拡大する球の矛盾から、すべての現象世界が起きているのが客観的世界と考えられるためです。

答えの見つけ方


人間は複雑な存在です。

それだけに人間の抱える苦悩に対して、こうすればより生きやすくなるというような、あらかじめ定められた正答などないと思われます。

しかしながら、次のことだけは明言できます。「より生きやすくなるような道は、その都度、その都度、必ず発見・創造されてくる」ということです。

ときどき人生の指南書がベストセラーになりますが、ある単一の理論だけでもって、すべての問題を解決することには無理があります。もともと、ある理論というものは、その理論が当てはまらない現象については、ノイズのようにして、あらかじめ除外することから成り立っています。そのため、指南書を上手に活用する人は、指南書では当てはまらない現象については、もっと別の手がかりをごく自然に模索しているものです。むしろいつまでもある理論にこだわる生き方は、そのうち生きづらくなってしまうものなのです。

それだけに、私たちはみんな、より価値のある解決策を、共に発見・創造するような場を求めているのです。心理相談に長くたずさわってきて、つくづくそんなことを思う今日この頃です。

(定森 恭司)

わくわく どきどき はらはら


某TV番組で、年を取ると時間のたつのが早いのは、わくわくすることが減るからだと言ってました。たしかにそうかもしれない。「こんなこと、前にもあったな」「○○の方がきれいだったね」などなど、どこかで過去をもちだしてきたりして、今の感動にひたれない。また、意地悪されたり、大きなミスをしたり、試験勉強に追い立てられたりといった、マイナスなことも減り、それはそれで平安かもしれないが、どきどき・はらはら感はない。

どうしたってこの先の方が短いのだから、できるだけ時間の速度を遅くしていきたい。「いつだって今」という感覚を持つようにしたり、嫌なこと、苦しいことも拒否せず、私の時間の速度を緩めてくれるものと考えたりしていきたいものです。

  (定森露子)

*写真は インド・タラブックスの本より 「虎」 

創造的人生を送るために


何も考えず、目の前の情報に振りまわされ、過去も未来もない「今・ここ」を受動的に必生きていると、ひたすら社会に適応することばかりに“こころ”が奪われ、たとえ生きづらさを感じても、あたかも自分の努力の至らなさの問題のような錯覚に陥ってしまいます。

しかし、今・この時が、過去の歴史を含み、かつ未来が開かれてくる創造的世界の一瞬・一瞬であることに目覚め「今・ここ」を生きるならば、より創造的人生に向かって歩み出すことができるように思われます。しかし、そのためには、誰もが背負っている歴史の悲哀を知ることが大切なように思われます。

(定森恭司)

行ってみないとわからない

**写真は阿寒湖の夕日

今日、ついに名古屋は40度超えた!
「暑」という字すらみたくないので、涼しい話を。

先日、北海道に行ってきました。野付半島、根室、霧多布湿原、釧路、阿寒とまわりましたが、前日までの名古屋が暑すぎて、少し涼しいかもとは思ってはいても思いが至らず、用意した着替えでは涼しすぎて、寒かったです。久しぶりに楽に呼吸ができました。気温が低いだけではなく、空が広く、人や建物の少なさも涼しい気分にさせてくれていたようです。

北海道も外国観光客が増えたという話しもありますが、私が行ったところはどこも日本人、外国人ともに少なくて、個人的にはよかったのですが、地元経済からすると、もう少し多くの人にきてほしいかなとおもっているのでは。夏だけ道東に住むという人も増えているとかききます。いいねえ。食べ物安いし、おいしいし。

野付半島のネイチャーセンターでホタテバーガーセットを頼むときに、300にしますか?500にしますか?ときかれ、咄嗟になんのことかわからなかったけど、セットの牛乳のことでした。牛乳500も飲むのか?このあたりの人は?やっぱり行ってみないとわからないこと多いな。今は釧路に住む名古屋育ちの姪が、「夕方になると寒いけどがんばって半袖着てる。そうでないと、半袖着れないし」って言ってました。羨ましい。

(定森露子)

意識と物質

意識と物質の2種類があるのではなく、森羅万象はすべて心的性質と物質的性質という一見すると相対立しているようなものが、実は不可分同一なものとしてに立ち顕れているというとらえ方があります。

“こころ”というものと付き合いながら長年研究し続けてくると、「やっぱりそうだなあ」という実感が強まってきています。

この実感が強まってくると、私たちは、むしろ心的なものと物質的なものを分けて考えることによって、本来のあるがままの世界をとらえ損ねているのではないかという考えに変化していきます。

(定森恭司)

花火を見てきました

熱田まつりの花火をみてきました。間近で花火を見たのは、10何年ぶりのこと。体に音を感じながら頭の上の光の花に包まれるのは、やっぱりいいなあとつくづく思いました。が、ここ何年も「花火を見に行くことは、とにかく疲れる」と言う過去のいくつかの体験から、行こうという気持ちがおこりませんでした。「よかったな~」と感動したことも多々あったはずなんだけど、なぜか「花火大会=疲れる」ができあがってしまっていたよう。

熱田まつりの花火は、40分ほど前に行っても、まあまあ良い場所が確保でき、帰りの地下鉄の駅に入りきれない人が溢れる、といったこともなくて、来年も行ってもみようかなと思えたのはよかった。ただ、やはりというか、制服きた高校生(平日なので)や社会人1年生?といった、きらきらした若い子達や2人の世界浸りきっているカップルたちもたくさん来てて、エネルギーに満ちた時空でした。
ひとつの夜空の花火に、沢山の人が、「わあ!」と同じ思いで見上げてるって、あらためてすごい平和だなと思いました。

花火は格段に進化していて、感動しました。昔の嫌な記憶に引きずられて避けてきたことに、ちょっと後悔。

当日の花火の写真を載せたいのですが、うまく撮れませんでした。代わりに、みなさん自分の記憶にある感動した花火をここで思い出してくださると嬉しいです。

(定森露子)

共に変化する関係の構築

相手を変えようしても上手くいかないときには、自らが変容すると相手も変容するとよく言われます。しかし、こうした変容のプロセスをよくみていくと、相手が変容するのでなく、自分と相手との関係自体の変容が、相手の変容をもたらしていることがわかります。無論、上手く変容しない場合もありますが、人間関係が上手くいく場合とは、関係自体の変容が常にあるためといえます。

相手を変えようとしているときというのは、自分は問題ではなく、相手が問題だと外罰的になっています。しかしこうした態度は当然のこととして相手には強い警戒心をもたらします。しかしながら、自分も多少なりに態度を変えることによって、問題を問題として扱っていた関係そのものに小さな変化が起きて、やがて局所的変容を可能とする新しい関係の成立が、やがて大きな変容につながっていき、問題自体が変容していくわけです。

人間関係における変容には、ひとりひとりの人に知らずのうちに取り込まれていた「常識」「健常」「普通」「正常」「善」「正しい」「正義」の思考の枠組み自体の変容が迫られていると考えてもいいでしょう。

(定森恭司)

We are not alorn in the world


これは、我が家で30年以上使っているバケツにかかれている言葉です。
息子が1歳半で保育園に行く時に、保育園でのオムツ入れとして亡き父が買ってくれたものです。当時は布おむつなので、使用済みオムツは個別に保管していました。ほどなく保育園での用はなくなり、家でつかうことになりました。

ここ20年くらいは、お風呂場においてあります。
子どもたちのみならず、家族全員が英語でかかれたこの言葉をずっと間近にみていたことになります。今更ですが、こんな優しい言葉と絵に見守られていたんだなと、感慨深いものがあります。これが例えば、「がんばることが、人生だ」とか「甘えるな」だったりしたら、また違った影響があったかもしれなません。どちらがいいかはわかりませんが、お風呂にはいりながら見るものとしては、これでよかったと思います。

(定森露子)