お知らせ

現在、新規の方の相談を受け付けるための空きがありません。大変ご迷惑をおかけしますが、また時期をみてお問い合わせください。

なお、カウンセリングにはタイミングが大切ですので、もし、お急ぎの場合は、下記サイトをご参照にされるなどして、他の相談機関に一度お問い合わせください。

参考サイト
①当室ホームページリンク集の心理相談室等
    http://kokoro.racoo.co.jp/link
②社団法人日本臨床心理士会のホームぺージ: 臨床心理士に出会うには
    http://www.jsccp.jp/near/

注1)心理相談室“こころ”のカウンセリングは、心理的悩みや問題に対して、来談者ご自身が、“こころ”の内的世界や外的世界を見つめ直すことによって、より生きやすい人生を創造的に歩んでいけるように、臨床心理学的方法によって支援するところです。

したがって、医療機関のように、「治療」や「治す」ことを目的としておりません。当室のカウンセラー(臨床心理士)は、あくまで来談されたご自身の「こころとの対話」による自己理解や生き方の整理のためのサポーター役とご理解ください。また、精神科や心療内科などの医療機関に通院の場合は、カウンセリングの適否について、主治医の了解を必要とします。

注2)初回面接は90分ほどかかり、料金は10,800円となります。初回面接後、もし継続となった場合は、初回面を実施したカウンセラーが、そのまま担当し面接日時も初回面接を実施した曜日と時間帯をそのまま継続するのが原則です。無論、1回で終了したり、しばらく様子を見る場合もあります。

注3)ご不便をおかけしますが、日祝日・出張中・面接中は、電話に出ることができず、留守録対応となっています。留守録対応の時は、その都度、連絡可能時間帯等を案内していますので、ご参照ください。

We are not alorn in the world

これは、我が家で30年以上使っているバケツにかかれている言葉です。
息子が1歳半で保育園に行く時に、保育園でのオムツ入れとして亡き父が買ってくれたものです。当時は布おむつなので、使用済みオムツは個別に保管していました。ほどなく保育園での用はなくなり、家でつかうことになりました。

ここ20年くらいは、お風呂場においてあります。
子どもたちのみならず、家族全員が英語でかかれたこの言葉をずっと間近にみていたことになります。今更ですが、こんな優しい言葉と絵に見守られていたんだなと、感慨深いものがあります。これが例えば、「がんばることが、人生だ」とか「甘えるな」だったりしたら、また違った影響があったかもしれなません。どちらがいいかはわかりませんが、お風呂にはいりながら見るものとしては、これでよかったと思います。

定森露子

心理学


人間の苦悩や悲哀の意味を問うのが哲学とするならば、いかにすれば救われるかを扱うのが宗教だといえます。

そこで、もし心理学は、人間の苦悩や悲哀にどう向き合うのですかと問われたならば、「人間の苦悩や悲哀の意味を問い、かつ、どのようにすれば救われるかを発見・創造していく学問です」といいたいところですが、まだまだ歴史が浅すぎて、哲学や宗教から学ぶべきものが多いと思います。
           定森恭司
 

努力する

西表島12/25

努力することは大切であるとは思う。が、何にたいして、何のために努力するかを考えてみた。とはいえ、「これからの時間」が「これまでの時間」に比べて格段に少なくなった今の私が考えたことであって、「これからの時間」が限りなくあると思っている若い人(私はそうだった)には何言ってんだろうと思うだろうな。

 

すくない時間を、それに加えて乏しくなってきたエネルギーを、過去のいやなことを消すための努力に使うよりは、あるいは、これから先の何かのための努力につかうより、もう少し「今」に使いたいなと思う。ただ「今」と言ったって、「今・この瞬間」に生きるなんてことは高僧でもない凡人の私が出来るわけもなく、せいぜい「今日1日」か「2~3日先まで」の間のことなんだけど、気持ちよく、楽しくすごすことに、もう少し努力してみようかと思う。

定森露子

非連続的連続


実は、過去も未来もどこにもありません。本来、今・この瞬間しかないのです。今・この瞬間に過去が含まれ未来が開けてくるのです。一瞬・一瞬が非連続的に連続しているのです。

しかもその一瞬・一瞬において、 世界は自己に働きかけ、自己も世界に働きかけています。自己も世界も非連続的に絶え間なく変化し続けているのです。

昔の日本人は、こうした世に、「無常」を感じてきたといえます。
(定森恭司)

過去・現在・未来の捉え方

過去に受傷した“こころ”の傷に、いつまでも拘泥したままの現在を生きるのか、それとも未来への希望を含んだ現在を生きるかは、人生の歩み方に大きな差異をもたらします。

過去に受けた“こころ”の傷の治療、修復や回復に執着するよりは、過去の問題は問題として直視しつつも、一旦意識野の外に置き、近い将来に達成見込みがあり、かつ実行可能な目標に向かって現在を生きていく方が、よい生き易い人生への転機となることもあるのです。

過去に支配された現在でもなく、未来を夢想ばかりする現在でもなく、過去を含みながらも未来が開かれてくる今・この時を自分自身の足下をしっかりと見定めながら着実に歩む姿勢が大切といえるのです。

※定森恭司

物語の源

読書感想文を苦手とする子どもが結構います。しかし苦手とする子の中には、読書が嫌いでない子も多くいます。アニメ漫画であろうと本を読んでいた時は夢中になっていたにもかかわらず、いざ書き言葉にすることを求められると、身構えてしまい文字が浮かばなくなってしまうのです。感想文を意識した途端、思考が停止してしまうのです。読書体験を書き言葉に変換するところで活動が停止してしまうのです。

しかしそんな子どもたちでも、書くという意識から一旦気持ちが離れられるように周囲が配慮し、自由な会話が許される雰囲気の中で、どんなストーリーだったのか、登場人物にどんなことを感じたかなどについて会話言葉で話すことをサポートしていくと、読書体験を自分の言葉で語りだす子どもがほとんどです。もしこのとき、聴き手が子どもの語った言葉をメモにしていくなどして、後でそのメモを子どもに見せて、メモを参考にして読書感想文を書くことを勧奨すると、子どもの多くが感想文を書くことができるようになります。

こうした出来事は、子どもの読書感想文の例に限りません。
直接体験を語ろうとするとき、外我が主要な意識の主体として作用しはじめる前に、まずは内我が外我に先行して意識の主体として働くことが大切です。内我の先行がないまま外我が直接体験を語ろうとすると、直接体験は途端に生き生きとした色合いを失います。外我は因果論的な時系列的報告は得意としますが、感情や感覚そのものを語ることを苦手とします。その結果、外我による自己表現からは情緒的な色合いがなくなります。一方、内我は直接体験を夢のような表象、感覚的なものや情緒的なチャンネルによってあるがままに直覚しようとします。こうした内我の働きとの協働がないまま外我が観察主体となって自己や世界を観察対象として観察すると、分析的、分別的、論理的に外的世界の現実について語ることはできますが、内我による内的世界の現実が脱落してしまうのです。

内我によって統合的に再構成された内的世界無き外我による観察は、事実だけ陳述した無機質的な観察日記にしかなりません。主観が自己や世界から外に排除された語りとなるのです。「私は、晩ご飯を食べてから、○○という本を読んで寝ました」という語りです。自己と世界が物化(ものか)されてしまうのです。自己と世界が物化されたとき、自己と世界の物語は生命力を失ってしまうのです。ドラマチックな人生の展開のためには、直接体験を直覚する内我による内的世界が関与しなくてはならないのです。

恐ろしいのは、一般化された既知の理を内在化する外我によって内我が情報化社会の浸透とともに、すごい勢いで管理・支配されはじめていることです。そのため内我は個性的な物語を上手く語れないストレスを抱え込むとともに、生き生きとした人生をもたらさない自己や世界に対する破壊的衝動や内的激昂性を高めはじめていることです。

外我が、一般性・普遍性・統一性・規範性・迅速性・効率性を強く求められる一方で、内我が、突如として切れやすくなってきていることです。

※定森恭司

対人関係について

ホロニカル心理学では、対人関係を、「私の意識」と「他者の意識」といった主語的関係だけではなく、それぞれがひとつのにおいて、自律に存在する「自己」と「他己」として相互交流し、ひとつの場を協働的に創りだしながら、かつ、それぞれが新たな自己(他己)に変容しながら、再び新たな場を創りあげあっている動的な関係として場の立場から捉え直していきます。

「私という小宇宙」と「他者という小宇宙」が衝突し相互包摂関係を持ちあいながら新たな宇宙(場)を形成しあっている関係として捉え直しているわけです。

「自己」と「他己」とは、ただ単に自律独立した関係ではないのです。「自己」と「他己」は、それぞれ個性的な存在でありながらも相互包摂関係のうちに、「自己が他己を包摂し新たな自己」となり、「他己が自己を包摂して新たな他己」になりながら、「新たな一つの場」を創りあっているといえるのです。

場が対人関係に影響し、対人関係に影響しているのです。

※定森恭司

ねば思考について

「ルールは守らなければならない」「泣き言を言わずに頑張らなければならない」など、思考の特徴のひとつに「○○ねばならない」という「ねば思考」と言われるものがあります。

そして、こうした「ねば思考」に対して、もっと「ねば思考」からの拘束から離れ、「もっと自由になりましょう」というトーンが巷ではよく言われます。

しかし、ここでそれこそ「注意しなければならない」ことがあります。

決して、「ねば思考」のすべてが悪いわけではないことです。

実感なき自覚は妄想です。真の自覚は実感に基づきます。「ねば思考」においても同じです。実感を伴って自ら「○○ねば」という時は、自覚をもって自らの使命を果たそうとする時であり、むしろ奨励されます。しかし、心的症状や心的問題などの要因になると思われる「ねば思考」は、内発的動機や自ら腑に落ちているという実感もないまま知らずのうちに「ねば思考」への服従を余儀なくされている思考の枠組みです。こうした場合は、再度、自己点検してみる必要があります。

いずれにせよ、実感の裏付けを伴う自律的な「ねば思考」と、実感なき他律的「ねば思考」の2つを区別する必要があるのです。
(定森恭司)

自覚のための参照枠

自覚とは、「○○について意識し腑に落ちること」です。

したがって、自覚のためには、必ず「意識するもの」と「意識されるもの」の関係が介在します。

この時、「意識するもの」は自己ですが、意識する自己によって、「意識されるもの」には、「自己(自身)」と「世界」があります。

人間の場合、乳児期の意識には「自己」と「世界」の関係は未分化で混沌としていますが、発達とともに「自己」と「非自己化された世界」の間に境界ができて、両者が区別されながら「意識するもの」によって意識されるようになります。

自己は、「自己」と「世界」を意識の対象として意識するようになると、「自己」についての意識化を通じて自己自身についての自覚を深めるとともに、「自己が存在する世界」についての意識化を通じて世界についても自覚を深めることができます。そして、ついには、「自己と世界の関係」についての自覚も深めることができるわけです。

自覚について考える時、注意しなければならないことがあります。「意識するもの」が自覚を深めるための根拠をどこに求めるかです。

自覚のための根拠は、実在するものに求められなければなりません。実在するものに根拠を求めず、ただ考えだされた論理や空想を根拠にした時は、ただの妄信といえます。

実在するものとは、自己と世界の瞬間・瞬間の出会の直接体験といえます。瞬間・瞬間の直接体験が実在するもののすべてを包摂しているのです。

自己は、「自己」と「世界」がせめぎあいながらも「自己」と「世界」が同一にある直接体験を通じて、自己自身と世界が確かに存在すると実感しているのです。

「自己」と「世界」が時々刻々と生成消滅を繰り返している場所に、自己と世界が確実に実在しているのです。自己は直接体験を通じて、この事実を実感し自覚することが可能なのです。

こうした理由から、自覚の根拠は直接体験の実感に求めなければならないといえるのです。

実感なき自覚は妄想です。真の自覚は実感に基づくものでなくてはなりません。
(定森恭司)