現在、新規の方は待機となります。詳しくは、ブログ・その他をご覧ください。

 大変ご迷惑をおかけしますが、現在のところ新規の方のご予約がすぐにお受けできない状態にあり、新規の方の初回面接については、現在、継続中の方の終了などをお待ちいただくことになります。

もしお急ぎでしたら、別の相談機関にお問い合わせください。

参考サイト
①ディーパ心理オフィス
 当室の元契約カウンセラーの近藤千加子さんが設立・運営する心理相談室。 
        http://dipah.com/
②当室ホームページリンク集の心理相談室等
    http://kokoro.racoo.co.jp/link
③社団法人日本臨床心理士会のホームぺージ: 臨床心理士に出会うには
    http://www.jsccp.jp/near/

なお、当室での待機をご希望される場合は、待機名簿作成の関係上、お手数をおかけしますが、お電話をください。(※)

※ご不便をおかけしますが、日祝日・出張中・面接中は、電話に出ることができず、留守録対応となっています。留守録対応の時は、その都度、連絡可能時間帯等を案内していますので、ご参照ください。

ブログ(「自己と世界を疎外する喧噪語」)を追加しました。

自己と世界を疎外する喧噪語

e38391e382bde382b3e383b3e381a8e690bae5b8af1 現代社会をけたたましく飛び交う情報は、喧噪語といえる。喧噪語は、何かを体験する前に人に情報を与えることによって、人をあたかもわかったような気にさせてしまう。ある少年は語った。「僕はインターネットなどを通じて、あふれる情報に触れているうちに、何もかも知ってわかったような気になっていた。それで、なんか人生が終わってしまったような気になっていた。でも、よくよく考えてみれば、僕は何も経験していない」と。そう、何かを直接体験したり直接経験することがないままにわかった気になるとは、生きているという実感すら奪いとられることといえる。わたしという主体が自己と世界から疎外されることといえる。しかしながら、実感なき情報は、ただの空想的観念にすぎない。決して、なまなましい現実とはならない。自己体験になんら結びつくこともない知識は人の助けにはならないといえる。
 喧噪語に心奪われすぎては、実感なき知識や知的情報に執着し、とらわれながら人生をただ受動的に過ごすことになる。そうなると人生は、空虚で、無意味なものとなる。自己も世界もただの無機質に動きつづける機械的な物質的世界となる。自己も世界も生命なき物となってしまう。煩悩すら自己や世界のものとならず、知的な理解対象の物となりかねないのだ。
 心理相談室こころでは、そうした主体の自己と世界からの疎外感を抱えて、多くの人が自己と世界と主体の一致の実感を求めてやってきているといえる。  (定森恭司)

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真の自己に向かって生きる

060 一般的にいって、「私」が、私について語る時、あたかも私のことを知っているかのよう人は語りますが、実は実際には、「私は私のことを知らない」といえます。なぜならば、「私」が私自身について語る時には、どうしても「知る私」と「知られる私」が分離してしまうからです。このことは、「知る私」について知ろうとしたところで同じです。「知る私」と「知る私を知ろうとする私」の分離はどうしてもまぬがれません。この作業はいくら繰り返しても同じです。どこまでいっても「知る」ものと「知られるもの」の分離が無限に続くだけです。ここに人が物事を知識として知ることにおける限界があるといえます。人が知ることができるのは、せいぜい観察対象の限られた部分だけで、そのものの全体とは決してならないわけです。意識的な主体である私が、いくら自己と世界を観察対象として知って生きようとしても、そうした人生の歩みだけでは自ずと限界がやってきます。

 むしろ真の自己や世界に目覚めた生き方のためには、観察主体と観察対象の区分をなくすことにあります。自分が知りたい対象である自己や世界と一体化すること、すなわち無心になることにあるといえます。自己も世界も、ただあるがままの実在として、ただそのままに直接的に体験する時こそ、そこには自己と世界の区分や境界のない真の自己/世界が自覚されます。仏教用語でいえば「無分別智」「悟り」といえます。
 しかしながら、普通、人は、無心のまま生きていることはいくらでもありますが、無心の境地の自覚のまま生きることは難しいものです。一般の人は、何かを意識した途端に、観察主体としての私が生まれ、自己と世界からすぐに分離してしまうからです。

 しかしよくよく考えてみれば、人はこの主体と対象の分離による悩みがあるからこそ、無心の時だった時を、あとで知ることはできます。

 したがって、自己と世界の不一致に絶えず悩みながらでも、ほんの少しでも自己と世界が一致した時の体験に向かって、自己を整えながら生きることが、真の自己に向かって生きることになると思われます。            (定森恭司)

ブログ(「年の終わりに」)を追加しました。

年の終わりに

 年の終わりが近づくと、不思議なもので、今年あったいろいろなことが思い出されます。時の流れを感じることもなく、気ぜわしく日々過ごしてきてしまった1年。年の終わりに1回ぐらいはゆっくりかみしめることも必要かもしれません。静かに大晦日に除夜の鐘の音を家族そろって(日本中の多くの人といっしょに)きく瞬間が大好きです。

 私にとって2011年はいろいろな意味で忘れられない年になるでしょう。
 東北大震災の津波や火災をリアルタイムでテレビで見ていたということ。大変なことを、手の届かないもどかしさとともに、他人事として見てしまっていたことの罪悪感・・・ 
  「科学的根拠」ということの「根拠」のなさ
  不安があっても、誰かが何とかしてくれるという他人事感

  自分のこととしてこの世にかかわっていくことの大切さを思い知らされた今年でした。

                                                        定森露子

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言葉におびえる

cimg3627暴力など、直接的に安心感や安全感が脅かされることがなくても、人は社会に流布される様々な言説に振り回され、自分はひょっとすると変でないかと絶えず不安を抱くものです。みんなからすると、私は、鬱にみえないだろうか、引きこもりに思われないだろうか、DVに思われないだろうか、性同一性障害にみえないだろうか、発達障がいに思われないだろうか、と言った具合にです。実際に、誰かに、そのように言われなくても、そうした言葉が社会で流行する度に、ひょっとすると私も・・という形で、みえない他者からの視線におびえてしまうものです。

人に安心感や安全感を提供することを期待されている臨床心理学も、逆に、心の現象をいろいろと言葉でもって概念化することによって、一方では、安心感・安全感を脅かすことにもなっている危険性もあります。それだけに心にまつわる言葉や概念を、どのような文脈で使用するかについては十分な注意を払わないと、問題ばかりをつつきあうことを助長し、相互不信になってしまうことだってありえます。

大切なことは、問題を分析しあうことにはなく、より生きやすい人生の道を共に見つけあっていくためには、お互いをどのように振る舞ったらよいかを発見・創造することだと思われます。

問題にする者と問題とされる者の関係よりも、共に問題を解決する信頼関係という土台を堅固に構築することの方がもっとも重要と思われます。(定森恭司)

ブログ(「駐車が新しくなりました」)を追加しました。