過去・現在・未来の捉え方

過去に受傷した“こころ”の傷に、いつまでも拘泥したままの現在を生きるのか、それとも未来への希望を含んだ現在を生きるかは、人生の歩み方に大きな差異をもたらします。

過去に受けた“こころ”の傷の治療、修復や回復に執着するよりは、過去の問題は問題として直視しつつも、一旦意識野の外に置き、近い将来に達成見込みがあり、かつ実行可能な目標に向かって現在を生きていく方が、よい生き易い人生への転機となることもあるのです。

過去に支配された現在でもなく、未来を夢想ばかりする現在でもなく、過去を含みながらも未来が開かれてくる今・この時を自分自身の足下をしっかりと見定めながら着実に歩む姿勢が大切といえるのです。

※定森恭司

物語の源

読書感想文を苦手とする子どもが結構います。しかし苦手とする子の中には、読書が嫌いでない子も多くいます。アニメ漫画であろうと本を読んでいた時は夢中になっていたにもかかわらず、いざ書き言葉にすることを求められると、身構えてしまい文字が浮かばなくなってしまうのです。感想文を意識した途端、思考が停止してしまうのです。読書体験を書き言葉に変換するところで活動が停止してしまうのです。

しかしそんな子どもたちでも、書くという意識から一旦気持ちが離れられるように周囲が配慮し、自由な会話が許される雰囲気の中で、どんなストーリーだったのか、登場人物にどんなことを感じたかなどについて会話言葉で話すことをサポートしていくと、読書体験を自分の言葉で語りだす子どもがほとんどです。もしこのとき、聴き手が子どもの語った言葉をメモにしていくなどして、後でそのメモを子どもに見せて、メモを参考にして読書感想文を書くことを勧奨すると、子どもの多くが感想文を書くことができるようになります。

こうした出来事は、子どもの読書感想文の例に限りません。
直接体験を語ろうとするとき、外我が主要な意識の主体として作用しはじめる前に、まずは内我が外我に先行して意識の主体として働くことが大切です。内我の先行がないまま外我が直接体験を語ろうとすると、直接体験は途端に生き生きとした色合いを失います。外我は因果論的な時系列的報告は得意としますが、感情や感覚そのものを語ることを苦手とします。その結果、外我による自己表現からは情緒的な色合いがなくなります。一方、内我は直接体験を夢のような表象、感覚的なものや情緒的なチャンネルによってあるがままに直覚しようとします。こうした内我の働きとの協働がないまま外我が観察主体となって自己や世界を観察対象として観察すると、分析的、分別的、論理的に外的世界の現実について語ることはできますが、内我による内的世界の現実が脱落してしまうのです。

内我によって統合的に再構成された内的世界無き外我による観察は、事実だけ陳述した無機質的な観察日記にしかなりません。主観が自己や世界から外に排除された語りとなるのです。「私は、晩ご飯を食べてから、○○という本を読んで寝ました」という語りです。自己と世界が物化(ものか)されてしまうのです。自己と世界が物化されたとき、自己と世界の物語は生命力を失ってしまうのです。ドラマチックな人生の展開のためには、直接体験を直覚する内我による内的世界が関与しなくてはならないのです。

恐ろしいのは、一般化された既知の理を内在化する外我によって内我が情報化社会の浸透とともに、すごい勢いで管理・支配されはじめていることです。そのため内我は個性的な物語を上手く語れないストレスを抱え込むとともに、生き生きとした人生をもたらさない自己や世界に対する破壊的衝動や内的激昂性を高めはじめていることです。

外我が、一般性・普遍性・統一性・規範性・迅速性・効率性を強く求められる一方で、内我が、突如として切れやすくなってきていることです。

※定森恭司

対人関係について

ホロニカル心理学では、対人関係を、「私の意識」と「他者の意識」といった主語的関係だけではなく、それぞれがひとつのにおいて、自律に存在する「自己」と「他己」として相互交流し、ひとつの場を協働的に創りだしながら、かつ、それぞれが新たな自己(他己)に変容しながら、再び新たな場を創りあげあっている動的な関係として場の立場から捉え直していきます。

「私という小宇宙」と「他者という小宇宙」が衝突し相互包摂関係を持ちあいながら新たな宇宙(場)を形成しあっている関係として捉え直しているわけです。

「自己」と「他己」とは、ただ単に自律独立した関係ではないのです。「自己」と「他己」は、それぞれ個性的な存在でありながらも相互包摂関係のうちに、「自己が他己を包摂し新たな自己」となり、「他己が自己を包摂して新たな他己」になりながら、「新たな一つの場」を創りあっているといえるのです。

場が対人関係に影響し、対人関係に影響しているのです。

※定森恭司

ねば思考について

「ルールは守らなければならない」「泣き言を言わずに頑張らなければならない」など、思考の特徴のひとつに「○○ねばならない」という「ねば思考」と言われるものがあります。

そして、こうした「ねば思考」に対して、もっと「ねば思考」からの拘束から離れ、「もっと自由になりましょう」というトーンが巷ではよく言われます。

しかし、ここでそれこそ「注意しなければならない」ことがあります。

決して、「ねば思考」のすべてが悪いわけではないことです。

実感なき自覚は妄想です。真の自覚は実感に基づきます。「ねば思考」においても同じです。実感を伴って自ら「○○ねば」という時は、自覚をもって自らの使命を果たそうとする時であり、むしろ奨励されます。しかし、心的症状や心的問題などの要因になると思われる「ねば思考」は、内発的動機や自ら腑に落ちているという実感もないまま知らずのうちに「ねば思考」への服従を余儀なくされている思考の枠組みです。こうした場合は、再度、自己点検してみる必要があります。

いずれにせよ、実感の裏付けを伴う自律的な「ねば思考」と、実感なき他律的「ねば思考」の2つを区別する必要があるのです。
(定森恭司)

自覚のための参照枠

自覚とは、「○○について意識し腑に落ちること」です。

したがって、自覚のためには、必ず「意識するもの」と「意識されるもの」の関係が介在します。

この時、「意識するもの」は自己ですが、意識する自己によって、「意識されるもの」には、「自己(自身)」と「世界」があります。

人間の場合、乳児期の意識には「自己」と「世界」の関係は未分化で混沌としていますが、発達とともに「自己」と「非自己化された世界」の間に境界ができて、両者が区別されながら「意識するもの」によって意識されるようになります。

自己は、「自己」と「世界」を意識の対象として意識するようになると、「自己」についての意識化を通じて自己自身についての自覚を深めるとともに、「自己が存在する世界」についての意識化を通じて世界についても自覚を深めることができます。そして、ついには、「自己と世界の関係」についての自覚も深めることができるわけです。

自覚について考える時、注意しなければならないことがあります。「意識するもの」が自覚を深めるための根拠をどこに求めるかです。

自覚のための根拠は、実在するものに求められなければなりません。実在するものに根拠を求めず、ただ考えだされた論理や空想を根拠にした時は、ただの妄信といえます。

実在するものとは、自己と世界の瞬間・瞬間の出会の直接体験といえます。瞬間・瞬間の直接体験が実在するもののすべてを包摂しているのです。

自己は、「自己」と「世界」がせめぎあいながらも「自己」と「世界」が同一にある直接体験を通じて、自己自身と世界が確かに存在すると実感しているのです。

「自己」と「世界」が時々刻々と生成消滅を繰り返している場所に、自己と世界が確実に実在しているのです。自己は直接体験を通じて、この事実を実感し自覚することが可能なのです。

こうした理由から、自覚の根拠は直接体験の実感に求めなければならないといえるのです。

実感なき自覚は妄想です。真の自覚は実感に基づくものでなくてはなりません。
(定森恭司)

ホロニカル心理学の研究方法

心理学が科学であろうとすると、多層多次元にわたる“こころ”の現象を客観的に観察し、その因果をできるだけ現実に即して分析していく必要があります。科学的研究の裏付が科学としての心理学には求められるからです。こうした研究姿勢の時には、できるだけ特殊な事情を考慮するのでなく、一般化できる普遍的法則を探究することになります。事例の研究だけではなく、多くの事例の累積データーの分析から“こころ”の現象の中で、できるだけ一般化できる法則を発見していこうとするわけです。

しかし、ここで重大な問題あります。心理学では、いくら客観的に観察するといっても観察する主体自体が“こころ”の主要な作用のひとつである「意識する主体」である限り、観察結果は、観察主体の主観に左右される影響を完全に排除できないという現実です。“こころ”を観察対象とする時の観察主体は、“こころ”の外の立場に立つことは不可能なのです。そのため、観察主体はどこまでいっても客観的なものとして普遍的主体として定めることができず、「ある観察主体の状態からみたら・・」という限定を免れることができないのです*1。

その結果、「ある観察主体の立場から“こころ”の現象を観察対象としたら、○○であることがわかった」という記述になります。しかも、ある観察主体が、多層多次元にわたって自在に変化する“こころ”の現象を観察対象とする時、その全体をそのまま観察することは不可能です。どうしても“こころ”の現象のある側面を観察対象として焦点化することになります。

例えば、同じ戦場にいる人間同士でも、Aさんは悲惨な戦場を眼のあたりにして、命をかけて戦う覚悟を決めますが、Bさんは「もう生きる希望は一切失った」と自ら死を選ぶという大きな差異となるわけです。人間以外の動物ならばある回避・逃避行動か麻痺行動などある程度類型化できるパターンを発見することができるところでも、歴史的文化的な存在でありかつ複雑な感情をもつ人間の場合には、実に個性的で多様な反応が予測されるのです。

そこでこうした心理学を科学的なものにしようとするならば、不確実性の問題に向き合う必要があります。そのためには、次のような工夫を図る必要があります。それは観察主体を固定化させず、「観察主体と観察対象の関係自体を扱う」という新たな視点の導入です。どのような観察主体からどのような観察対象に焦点化してどのように観察するとどのような観察結果になるかという無限の組み合わせの考えられる大量なデーターを蓄積する中で、できるだけ確率の高いパターンを発見・創造していくという研究方法です。スーパーコンピュターやAIなど情報科学の加速度的進展は、こうしたアイディアを実行可能なものにしつつあります。

しかし、こうした最先端技術を駆使した研究でも、それだけでは、“こころ”の全体像はまったく把握できません。大量なデーターの分析の割に発見できる“こころ”の一般法則はあまりに限られたものとなり、しかも物理科学とは違って、その有効性の確率は低い値になると考えられます。かけがえのない自己の多様な現れをする“こころ”の理解とは、アプローチが真逆になっているからです。

そのため“こころ”の一般法則を探究する方向ではなく、特殊な現象の研究から一般化できる法則を発見していこうとする方向もあわせて研究していく必要があります。

観察主体と観察対象の関係の差異が無限になってしまう研究方法とは真逆に観察主体と観察対象の関係の差異を無限に縮める方向に向かって研究する方向です。観察主体の微妙な変化ですら変化してしまう“こころ”の現象を、できるだけありのままの全体像を直覚していく方向です。観察主体をできるだけ無にして観察対象と一となった瞬間の実感・自覚に基づいて心理学の智慧を発見・創造していく方向といえます。前者は蓄積されたデーターの解析を必要としますが、後者は研究者自身が観察主体を無にしていくような内観的姿勢が必要となります。 

前者の研究による解析結果は、後者による方法で人々の多くが実感・自覚的することによって実証されていく必要があります。前者の研究方法で発見された知だけでは、ただの知識であり、ただの記号や数値にすぎません。実感・自覚を伴なわない心理学は心理学とはいえません。それでは機械的な乾いた心理学になります。理知的な論理だけを成果とする感性なき心理学になってしまいます。それでは、誰もが実感している“こころ”の研究とはいえません。それでは活きた心理学にはなりません。それでは役に立ちません。前者は後者によって裏付けられた時、はじめて活きた心理学となります。また後者も前者によって裏付けられた時、科学的にエビデンスのある心理学となります。しかしながら、後者のような特殊現象の体験的累積の中に含まれる一般法則の発見は、心理学の場合は実感と自覚に基づく発見以外の道はないかと思われます。分析や解析だけでは心理学になりません。分析・解析されたものと全体との関係が統合的に理解されなければ心理学とはいえません。そして、何よりも、実感と自覚を離れたならば、もはや心理学ではないと思われます。

注1: “こころ”の研究を心理学ではなく、科学の立場から研究しようとする人たちの中には心脳同一説で物理主義の立場の人がいます。その立場に立つ人は、観察主体という意識の立場を離れ、脳の研究から一般法則を目指すことになりますが、そうした立場の研究者も、物理科学主義の立場にある観察主体が、観察対象として、あくまで脳の反応を研究し、その結果でもって“こころ”の現象のある一面を語っているだけとホロニカル心理学の立場では考えます。

(定森恭司)

紅葉ベスト3


10年ほど前に当時教えていた学生に、「私の中の紅葉ベスト3」を伝えたことがあります。10月でどこか紅葉を見に行きたくてうずうずしていた頃です。
  1位 白神山地   2位 天生峠   3位 せせらぎ街道

いづれも、きれいにしつらえられた庭園ではなく、複雑な、自然の山の紅葉です。ベスト3はさしたる下調べもせずに、だから予想も期待もさほどせずに行ったのですが、とくに白神山地・天生峠はあまりのきれいさと雄大さとで怖くなってしまいました。自然は恐い、と心底思いました。

今年秋、3位のせせらぎ街道にいってきましたが、前に行った時ほどはきれいではなかった気がしました。土地の人が「今年は10月に台風が2度きて、多くの葉を散らせてしまって、例年ほどきれいではないです。」といってました。
やっぱり自然は、勝手な人間の思うようには動いてはくれないものだなあと、思い知らされました。またところどころすごくきれいなところもありましたが、前ほど感動しなかった気がします。感動を得ようと思って行っても、感動はしないものかもしれないと、思いました。

「予想外の・・」「思ってもみない・・・」「突然の・・」が、良きにつけ、悪しきにつけ、心に深く刻まれるようです。
 
定森露子

「時」に目覚める

人為的に定められた時計の時間を生きるのではなく、自然の営む「時」を生きることが大切です。

「時」とは、刻々変化する無常の瞬間・瞬間のことです。
瞬間とは、「時間よ止まれと」時間を止めた静止画面のような瞬間ではなく、瞬間・瞬間が絶えず非連続的に連続的に変化し続けていく「永遠の今」ともいわれる生命の時に生きるということです。

生成と消滅の繰り返しの中で、生きている瞬間の至福の感動に目覚めるような「感じらとられる時」のことです。
             (定森恭司)

神から自我へ 自我から自己へ

西洋は神から自我への覚醒が歴史をつくった。しかしこれからは、自我から自己への覚醒の歴史をつくる必要ある。

この点、もともと東洋は無我が自己であり、無我から自我を確立していくことが歴史をつくった。しかしこれからは、自我から再び自己を回復する歴史をつくる必要がある。
 
自我から自己の覚醒の課題を背負っているのが西洋で、自我から自己を回復する課題を背負っているのが東洋の課題といえる。 
  (定森恭司)

場からの心理学の再構築

これまでの心理学を、物理的現象と心的現象が生成消滅することによって、自己と世界が立ち顕れててくるの立場から心理学を再構成することが重要と思われます。

<場とは>
・面接の場とともにクライエントが生きている生活の場を含みます。
・場には、あらゆるものが含まれます(存在と無、意識から無意識なるものまで、物理・生物・社会・歴史・文化・思想・宗教に至るまで)。
・刻々と変化する自己と世界が触れあう生きる場において、さまざまなこころの現象が
立ち顕れてきます。瞬間・瞬間、場において新たな自己と世界が創発されています。
自己の立場からみた時、自己にとっての意識野が場にあたります。場からみれば場が自己を通して自己に映されたものが無意識を含む意識といえます。
・物理的現象と心的現象が立ち顕れてくる場とは、東洋では、空、哲学的には絶対無と言われてきました。科学的には「量子化された場」の概念が類似するのかも知れません。
・場から生起してくる心的現象と物理的現象が、自己と世界を形成し、自己にとっては、多層多次元なこころの現象となって顕れてきます。
・場における自己と世界の一致の体験が適切で新たな観察主体と観察対象の変容をもたらし、この体験が新たな生活の場でのより適切な関係の構築を促進します。
・場において自己と世界の一致と不一致体験が繰り返され、適切な自己ならば自ずと自己を自己と世界が一致する方向に向かって自己を自己組織化します。
・場の立場からすれば、カウンセラーが直接クライエントと面接する機会がなくても、クライエントが生きづらさを感じている生活の場にカウンセラーが働きかけられることが出来たならば、場の変容がクライエントのより生きやすい人生の発見・創造に寄与することが可能となります。

<“こころ”への多様なアプローチの捉え方>
場から立ち顕れてくる現象に対する観察主体と観察対象の関係の複雑化が、多層多次元な心的構造を形成していきます。したがって “こころ”に対する既存の多様な理論やアプローチの違いも観察主体と観察対象の差異として記述していけば統一的に理解可能な道が開かれます。

<自己と世界及び直接体験と場の関係>
・自己と世界の触れあいの直接体験には、空間的にも時間的に生起する現象のすべてが包含されていくとともに、自己自体が場によっても包摂されていきます(自己と世界のホロニカル関係)。
・場である世界なくして存在する自己の概念は、考え出された自己であって実際には存在しません。自己は世界内存在として必ず存在します。西田幾多郎が指摘するように、「経験があって個人があり、個人があって経験があるのでない」のです。人間の意識中心主義に陥ると、場を忘れて、あたかも自己が世界から独立してあるかのような錯覚をもってしまうのです。
・場に包摂され場を包含していく直接体験を、自己がどのような観察主体からどのように観察しようとすかの違いによって、さまざまなこころにまつわる現象が立ち顕れてきます。
・場において自己は、世界から変容を迫られつつも自己は変容を迫りくる世界に対して能動的に働きかけることができます。
・場を自己の立場から見るところに、自己はこころの働きを実感します。
・自己は、直接体験の直覚を通じて、自己と世界ができるだけ一致する方向を求めて自己自身を自己組織化しようします。
・場における観察主体と観察対象の関係の複雑化は心的構造の多層多次元化を促進します。

意識の心理学から場の心理学への転換
・これからは、意識の主体から場を捉えていたホロニカル・セラピーから、意識の主体の立場を含んだ場の立場からホロニカル・セラピーを含むホロニカル・アプローチを再構成していきます。
・自己と世界の出会う場(面接の場やクライエントが生きている過去・現在・未来を含む生活の場を含む)からホロニカル・アプローチを探究していきます。
・場の立場からすれば、カウンセラーが直接クライエントと面接する機会がなくても、クライエントが生きづらさを感じている生活の場にカウンセラーが働きかけられることが出来たならば、場の変容がクライエントのより生きやすい人生の発見・創造に寄与することが可能となります。
・面接の場におけるクライエント/カウンセラー関係の一致・不一致体験の反復の中で、より両者が一致する方向に信頼関係が深まる時、クライエントの観察主体と観察対象(自己や世界)との関係も両者がより一致する方向に向かった変容が可能となります(血肉化する)。
・観察主体と観察対象をめぐって、自己と世界の不一致体験が累積すると、さまざまな心的症状や心的問題となります。
・生きづらさを実感している場合に実感と自覚を伴う変容のためには、場における一瞬・一瞬に創発されてくる自己と世界の一致の直接体験を基盤とすることが大切となります。
・面接の場での自己と世界の一致の直接体験の累積が、クライエントの観察主体と観察対象のよりよき変容を自己組織化し、クライエントの生活の場での生きやすさにつながっていきます。
・心に対する各理論や技法は、直接体験に対する観察主体と観察対象の差異の全体を、より統合的視点から俯瞰することができれば、同じ直接体験に対する差異として従前の臨床の智慧を生かすことが可能となります。
・ホロニカル・アプローチでよく行う外在化は、自己と世界の関係を安全で安心できる面接の場での無限の俯瞰によってもたらされるクライエント/カウンセラー関係の一致の体験が基盤となり、新たなクライエントとのこころの内・外にわたる対象関係の自発自転的な変容をもたらします。
・ケースの終了は、症状の消失や軽減ではなく、いつまでも支え続けることでもなく、クライエント自らが適切で新たな観察主体と観察対象の関係を再構築するか、適切で新たな自己と世界との関係を持ち始めクライエント自らがカウンセラーから離れて生きる覚悟をもてるようになった時といえます。
・ホロニカル・アプローチでは、治療とか、直すとか、解決とか、洞察とか、分析とか、受容とかいう視点の基盤として、クライエントが自己と世界とどのような態度で向き合うと、より生き易い道が発見・創造できるかをカウンセラーも共同研究的な姿勢で協働する関係を構築することがまずはすべての土台になると考えます。
・観察主体と心的症状や心的問題を観察対象としている時の両者の関係自体が変化しないことには変容が見込めない場合には、別の視座からの俯瞰(無限の俯瞰)する場が必要になります。
・観察主体と観察対象の関係の自発自展が阻害されている時は、阻害されている観察主体と観察対象の関係自体を、異なる観察主体から観察したり、異なる対象を観察対象とすることで、より生きやすい新たな人生の道が自ずと発見・創造されます。
・ある心的症状やある心的問題は、多層多次元にわたる自己と世界をめぐる悪循環パターンを内包しているため、面接の場でも反復されるが、面接の場でもしある層やある次元の観察主体と観察対象の関係の変容が起きれば、それは他の層や次元の変容につながります。
・頑固な心的症状や心的問題ほど、こころの多層多次元にわたる観察主体と観察対象の関係において悪循環パターンが見られ、その場でも再演されます。
・適切な観察主体が成立すればするほど、クライエント自発自展的に変容する可能性を獲得していきます。
・観察主体が脆弱なクライエントの場合は、適切な観察主体の成立を促進する場が必要です。
・ホロニカル・アプローチで実施される俯瞰において、もっとも大切なことは、クライエントの生きている場が少しでも安全で安心が体感されることを優先するです。
・窮極的ともいえる無限の俯瞰では、観察主体と観察対象との関係が絶対矛盾的自己同一となります。
(定森恭司)