
相談室にいくつかの「小物」がおいてあります。インドの真鍮製の人形、シバ神像、龍、ベトナム製の木の壺、ちいさな仏像(ホームページの中にいくつか出ています)・・・・。ちょっとした飾りというか、息抜きの物達ですが、ときには、こころの一部を表現したり、対話したりなど、様々な働きもします。その中でも特に古くからあるのが、この写真の「オカリナ?」です。相談室それぞれに置いてあるのですが、鼻がかけてしまったりして、引退を考えています。あまりにも馴染んでいるので同じものを置きたいのですが、買ったのが何せ10数年も前のことで、買ったお店、置いてそうなお店にきいたところ、ともに「見た覚えはあるが、今はありません」、ということでした。どなたか置いてあるお店をご存じでしたら、御連絡くださいませんか。あまりにも手がかりもなく、ネットでも調べようがありません。
メキシコ製、陶器、背中に穴が4つないしは2つ、多分オカリナ? 定森露子
2012.05.08 16:59|カウンセリング 名古屋,コラム,ブログ,心理相談,日記など
インターネットの不具合により、一時期「予約お問い合わせフォーム」が、心理相談室こころに届かないという不具合がありました。
現在は回復しております。
もし、「予約・お問い合わせフォーム」を送信されても、いまだに自動返信メールが届かなかったり、当室からの返信メールが届いていないという方は、お手数をおかけしますが、再度ご送信されるか、電話にて当室までお問い合わせください。
2012.04.25 18:01|その他,ブログ
「私」とか、自己」という言葉に、人は、いろいろと異なるイメージを抱いているものですが、心理相談室“こころ”では、次のように整理しています。
「私が自分自身について語る」という場合を例にとって、このテーマを整理してみます。この表現には、まず主語的に使われる「私」に対して、述語的に使われる「自分自身」という2つの私があることにすぐに気づきます。心理相談室“こころ”では、前者の自分を、「私」とし、観察対象となる自分自身を「自己」と考えます。従って、私が観察主体となって、観察対象としての自己について語るということになります。主語としての「私」が、「自己」について述語的に語るということになります。
「私」は、「自己」がなくては存在すらできません。しかし、述語的な対象となる「自己」は、「私」というのが成立して、はじめて自覚される存在でもあります。このことは、赤ん坊を考えてみればわかります。「私」という自覚が育っていない赤ん坊は、まだまだ自己と世界の境界すら混沌としているといえます。自己と世界を自覚する私が、まだ未成立だからです。しかし、次第に、成長とともに、自己と非自己(他者や世界)を自覚する「私」が育ってきます。そのうちその私は、自分に「名」があることも自覚するようになります。「私」が成立してはじめて、自己と世界が意識の上に区別されて自覚されるようになるといえます。動物も自己があるといえます。しかし、自己があると自覚する主体としての私が、人間のようには無いといえます。
実は、「私」と「自己」の関係が、上手くいかないと、こころが不調をきたします。私にとっては、自己とか世界の存在がうとましくなったり、否定的に思えてきます。私と自己や世界との境界が曖昧になることもあります。境界が曖昧になると、自分の思ったことと世界で起きていることの区別がわからなくなります。自己を否定した私が暴走することがあります。逆に自己だけが私を無視して暴走することもあります。
こうしてみると、どうやら私と自己と世界との適切な関係を作り上げることが大切といえます。
「私」は、「自己」があって、はじめて成立するものです。しかし、人は成長するともに、「私」の方が、「自己」を超えて、私のすべてのような錯覚をもちがちです。自分なんて生きている価値がないと、自己の存在に否定的になってしまうのは、「私」の方といえます。自己の方は、考え込んでしまう私の存在に関係なく、生身の自然な生命的存在として、ただひたすら死ぬまでけなげに生きようとしている存在といえます。
自殺の増える現代社会とは、ひょっとすると、「自己」より、「私」が、自分のすべてと錯覚してしまうことが影響しているといえるかも知れません。もっと自然な存在として生きている「自己」のことを大切にできる「私」になりたいものです。 (定森恭司)
2012.04.05 08:23|カウンセリング 名古屋,キーワード,コラム,ブログ,心理相談,日記など
あかちゃんにカメラを向けるとにっこり笑う。そんな姿は愛らしい。カメラを向けただけでカメラ目線になり笑顔をみせてくれる、そんな姿をまわりは喜ぶ。
しかし、あかちゃんは何を見て笑うのだろう。何に笑顔を向けているのだろう。
「リアル顔」でないカメラに笑顔を見せる、ちょっと考えると不思議な光景。
本人に嬉しいという思いがあるかどうかわからないけど、状況を瞬時に察し、笑顔を向けるというこのことは、自分の実感より先に、状況や期待に即応えてしまおうとする、最近のこどもによくみられる姿と同じものを感じてしまう。
※写真は、鹿児島鑑真記念館前の鑑真が漂流した浜です。 定森露子
2012.03.05 14:22|その他,カウンセリング 名古屋,コラム,ブログ,心理相談,日記など
現代社会をけたたましく飛び交う情報は、喧噪語といえる。喧噪語は、何かを体験する前に人に情報を与えることによって、人をあたかもわかったような気にさせてしまう。ある少年は語った。「僕はインターネットなどを通じて、あふれる情報に触れているうちに、何もかも知ってわかったような気になっていた。それで、なんか人生が終わってしまったような気になっていた。でも、よくよく考えてみれば、僕は何も経験していない」と。そう、何かを直接体験したり直接経験することがないままにわかった気になるとは、生きているという実感すら奪いとられることといえる。わたしという主体が自己と世界から疎外されることといえる。しかしながら、実感なき情報は、ただの空想的観念にすぎない。決して、なまなましい現実とはならない。自己体験になんら結びつくこともない知識は人の助けにはならないといえる。
喧噪語に心奪われすぎては、実感なき知識や知的情報に執着し、とらわれながら人生をただ受動的に過ごすことになる。そうなると人生は、空虚で、無意味なものとなる。自己も世界もただの無機質に動きつづける機械的な物質的世界となる。自己も世界も生命なき物となってしまう。煩悩すら自己や世界のものとならず、知的な理解対象の物となりかねないのだ。
心理相談室こころでは、そうした主体の自己と世界からの疎外感を抱えて、多くの人が自己と世界と主体の一致の実感を求めてやってきているといえる。 (定森恭司)
2012.02.03 17:34|その他,カウンセリング 名古屋,コラム,ブログ,心理相談,日記など
一般的にいって、「私」が、私について語る時、あたかも私のことを知っているかのよう人は語りますが、実は実際には、「私は私のことを知らない」といえます。なぜならば、「私」が私自身について語る時には、どうしても「知る私」と「知られる私」が分離してしまうからです。このことは、「知る私」について知ろうとしたところで同じです。「知る私」と「知る私を知ろうとする私」の分離はどうしてもまぬがれません。この作業はいくら繰り返しても同じです。どこまでいっても「知る」ものと「知られるもの」の分離が無限に続くだけです。ここに人が物事を知識として知ることにおける限界があるといえます。人が知ることができるのは、せいぜい観察対象の限られた部分だけで、そのものの全体とは決してならないわけです。意識的な主体である私が、いくら自己と世界を観察対象として知って生きようとしても、そうした人生の歩みだけでは自ずと限界がやってきます。
むしろ真の自己や世界に目覚めた生き方のためには、観察主体と観察対象の区分をなくすことにあります。自分が知りたい対象である自己や世界と一体化すること、すなわち無心になることにあるといえます。自己も世界も、ただあるがままの実在として、ただそのままに直接的に体験する時こそ、そこには自己と世界の区分や境界のない真の自己/世界が自覚されます。仏教用語でいえば「無分別智」「悟り」といえます。
しかしながら、普通、人は、無心のまま生きていることはいくらでもありますが、無心の境地の自覚のまま生きることは難しいものです。一般の人は、何かを意識した途端に、観察主体としての私が生まれ、自己と世界からすぐに分離してしまうからです。
しかしよくよく考えてみれば、人はこの主体と対象の分離による悩みがあるからこそ、無心の時だった時を、あとで知ることはできます。
したがって、自己と世界の不一致に絶えず悩みながらでも、ほんの少しでも自己と世界が一致した時の体験に向かって、自己を整えながら生きることが、真の自己に向かって生きることになると思われます。 (定森恭司)
2012.01.09 20:45|その他,カウンセリング 名古屋,コラム,ブログ,心理相談,日記など
年の終わりが近づくと、不思議なもので、今年あったいろいろなことが思い出されます。時の流れを感じることもなく、気ぜわしく日々過ごしてきてしまった1年。年の終わりに1回ぐらいはゆっくりかみしめることも必要かもしれません。静かに大晦日に除夜の鐘の音を家族そろって(日本中の多くの人といっしょに)きく瞬間が大好きです。
私にとって2011年はいろいろな意味で忘れられない年になるでしょう。
東北大震災の津波や火災をリアルタイムでテレビで見ていたということ。大変なことを、手の届かないもどかしさとともに、他人事として見てしまっていたことの罪悪感・・・
「科学的根拠」ということの「根拠」のなさ
不安があっても、誰かが何とかしてくれるという他人事感
自分のこととしてこの世にかかわっていくことの大切さを思い知らされた今年でした。
定森露子
2011.12.18 21:52|その他,カウンセリング 名古屋,コラム,ブログ,心理相談,日記など
暴力など、直接的に安心感や安全感が脅かされることがなくても、人は社会に流布される様々な言説に振り回され、自分はひょっとすると変でないかと絶えず不安を抱くものです。みんなからすると、私は、鬱にみえないだろうか、引きこもりに思われないだろうか、DVに思われないだろうか、性同一性障害にみえないだろうか、発達障がいに思われないだろうか、と言った具合にです。実際に、誰かに、そのように言われなくても、そうした言葉が社会で流行する度に、ひょっとすると私も・・という形で、みえない他者からの視線におびえてしまうものです。
人に安心感や安全感を提供することを期待されている臨床心理学も、逆に、心の現象をいろいろと言葉でもって概念化することによって、一方では、安心感・安全感を脅かすことにもなっている危険性もあります。それだけに心にまつわる言葉や概念を、どのような文脈で使用するかについては十分な注意を払わないと、問題ばかりをつつきあうことを助長し、相互不信になってしまうことだってありえます。
大切なことは、問題を分析しあうことにはなく、より生きやすい人生の道を共に見つけあっていくためには、お互いをどのように振る舞ったらよいかを発見・創造することだと思われます。
問題にする者と問題とされる者の関係よりも、共に問題を解決する信頼関係という土台を堅固に構築することの方がもっとも重要と思われます。(定森恭司)
2011.11.01 19:46|その他,カウンセリング 名古屋,コラム,ブログ,心理相談,日記など