臨時休業のお知らせ

 平成29年4月29日(土)~5月7日(日)の間は、日曜・祝日以外に5月1日(月)が休みとなることをご了承ください。

嗜癖

嗜癖とは、現実世界における心的痛み、葛藤、不安や恐怖を何らかの理由で直視できないために、何かに没頭することで現実の苦悩から身を守ろうとする行動ともいえます。 (定森 恭司)

生き方の違い

自己と世界の出会いの直接体験を、自己自身が自己組織化していくプロセスに注目することが大切です。

すべての直接体験をあるがままに自己自身に取り込み自己組織化することが理想的な自己組織化といえます。しかし、実際にはそうは上手くいきません。まず多様な直接体験そのものを自己自身がすべて直覚すること自体が困難です。さらに直覚された直接体験を、適切に自己自身に取り込むことも簡単なことではありません。

しかもこうした自己が直接体験をあるがままに実感し自覚することが難しいという現実が、心的苦悩や心的問題をもたらします。直接体験と直接体験を自己自身に取りこもうとする主体との間の不一致が心的苦悩や心的問題の源なのです。

世界の多様なひとつの個性的あらわれとしてこの世に誕生した自己は、生まれ故郷でもある世界を自己自身に自己再帰的に取りこみながら自己組織化しようとします。そこで自己は自己以外の世界との出会いのさまざまな直接体験の断片を、できるだけにひとつの全体的で統合性のあるものとして取り込もうとします。しかしそのプロセスがいつもスムースにいくとは限りません。多様な世界のパターンの中から、ある特定でローカルなパターンばかりが積極的に取り込まれてしまって自己自身が知らずのうちに独善的になってしまう場合があります。また特定の直接体験の断片が強烈なトラウマ体験となるため、どうしてもすでに取り込まれた自己の全体から隔離されてしまう場合もあります。

しかしこうした自己と世界の不一致の直接体験も、新しい受け止め方をもたらすような新たな直接体験さえあれば、それまでは自力ではなかなか困難だった自己自身への統合化や再統合も可能性となります。

心理相談の場とは、まさにクライエントにとっては自己と世界の不一致となるはずのところが、自己と世界の一致の新たな直接体験をもたらす場となる必要があるわけです。カウンセラーがクライエントの抱える自己と世界の不一致に伴う心的苦悩や心的問題の直接体験を共有する時、クライエントとはこれまでの自己と世界の不一致となる筈の直接体験をカウンセラーと一致する直接体験を通じて、新たな自己組織化のパターンを発見・創造することが可能となります。クライエントとカウンセラーが共感的関係を構築しながら一致する直接体験を累積すればするほど、クライエントは自ずとこれまでとは異なる自己と世界の直接体験のパターンを取り込むことが可能となるのです。

自己は自己と世界の不一致の体験が累積していたとしても、自己と世界の一致の瞬間の直接体験を徹底的に基準とすれば、適切な自己組織化の方向に向かうことが可能です。この時、自己と世界の一致の直接体験との自己照合の中で、より腑に落ちる感覚、知覚、直感、思考とは何かを実感し自覚していくことが大切になります。もし自己が世界との一致の直接体験を重視せず、たとえ世界と不一致になったとしても自らの信念・思想等を基準にして無理矢理進もうとすると、世界の方がより危険にさらされることになります。 (定森 恭司)

絶えず生成生滅を繰り返している自己と世界

自己と世界の出会いの直接体験とは、まず、自己と世界という別々の物があって、そこに自己と世界の出会いがあるという感覚になりがちです。しかしそうした世界観は、どうも古典物理学的な時間と空間が絶対とした時の考え方ということになるようです。

自己と世界という現象を、ミクロの窮極的レベルである量子論的世界観から見直すと、自己と世界は共に、無の場から、自己と世界がその都度立ち現れてきている現象ということになるようです。

一瞬一瞬に、自己と世界のあらゆるもの(塵ひとつとて)が、生成生滅を繰り返しながら立ち会われは消える壮大なドラマを展開しているというわけです。窮極的なミクロの世界での波動と波動の織りなすハーモニーの重ね合わせが自己と世界という壮大な宇宙を創りだしているというのです。

量子論の描く世界とは、華厳教の世界観とほとんど同じであることにも驚かされます。
(定森 恭司)

自己と世界の一致と不一致

世界から誕生した「私」という存在は、瞬間、瞬間、「私」を産みだした世界自身に包まれて生きつつ、いずれ死んで世界自身と一体化していきます。

そして世界の中に生きる私は、世界の中に何かを感じながら、また何かを理解しながら生きています。

この時、「私」という存在ではなく、「私」という意識について、ちょっと考えてみると次のようなことに気づきます。

「私」とは、何かを感じたり、何かを理解したりする時に、その背景にいるいつも必ずいるような何かを意識している主体のようなものといえます。「我思う故に我あり」の「我」が「私」の意識にあたります。こうした「私」という意識があって、「私」という存在にもはじめて気づくことができるわけです。

しかし、この私という意識は、何かに無心になっている時に、すなわち「我を忘れている時」には、私という意識はなかったといえます。

無心の時とは、私と世界の関係が無境界的になってひとつになっています。私と世界の触れあいによる純粋な経験だけといえます。ホロニカル・心理学やホロニカル・セラピーでは、「直接体験」と呼んでいます。無心の時とは、直接体験そのものの時といえます。あるがままの時といえます。

しかし、無心の時以外は、すぐに、私という主体的な意識が、何かを見つけて、それを感じたり、それを他のものから区別しています。その結果が、私が観察の主体となって、何かを観察対象としているという関係を作り出しています。この時、私の意識の立場からすると、観察対象となるのは、世界ばかりでなく、私自身(自己)も観察対象になります。

何かを観察する時とは、観察対象となる世界は、私という観察主体の意識からは切り離されています。観察主体の私の意識が、私の意識以外を観察対象とするという関係になるわけです。しかし、こうした時には、世界と無境界という感覚はまったくありません。世界は私の意識とは切り離された私とは関係のない世界となってしまうのです。私と世界の関係が切断され、切り離されてしまいます。

また、私にとっては、観察対象となるのは世界ばかりではありません。私自身も観察対象となります。このことは、次のことをしてみると自覚できます。

まず手を合わせて合掌のポーズをとり、右手と左手のひら同士が触れあっているところを、何も考えないで、じっくりと落ち着いて感じてみてください。次に両手を離して、右の手のひら、左の手のひらをそれぞれ交互に眺めてみてください。

前者では、観察する私の意識は、両手の触れているところに一点集中していきます。その結果、観察する私が一体化し直接体験そのものになる方向といえます。一方、両手を開いて、左右の手のひらを観察する時は、私が、手のひらを観察対象として見ているという感じになります。私の意識が、世界から手を区別して、手という物を私が見ているという関係になります。この時、観察している私の意識は頭の中にあり、観察対象となっている物としての手との間には境界(空間的間)があります。

このようにして、私という存在(自己)は、無心になって、私と世界がすべて一体となって、ただ直接体験そのものとなっていても、何かを意識した途端、私という意識が主体となり、私自身や世界が客体となって2分されてしまうのです。こうしたことは、瞬時・瞬時に繰り返えされているのです。

私自身という存在を、私という意識と区別して自己と言いかえると、私は、自己と世界との一致・不一致を絶え間なく繰り返しているということになります。走っている馬を無心になって感動している瞬間と、そのことを、「私は、走っている馬を見た」という瞬間は刹那の違いといえます。こうした刹那の差異が、自己と世界の関係の一致と不一致をもたらしているのです。

そして、とても大切なことは、私という意識は、自己と世界と不一致になった時に生起するものであって、不一致でない時には、生起していないということです。私という存在は、普段、まったく意識されない時には、「無い」のです。しかし、何かを私の意識が区別して意識した時には、意識する私が、即座に点灯する光のようなものとして「有る」ように立ち現れくるのです。

ホロニカル心理学やホロニカル・セラピーでは、自己と世界の一致の瞬間の直接体験を大切にします。そして、自己と世界の不一致の直接体験が土台となって、自己と世界ができるだけ一致する方向に自己自身を変容させていくと考えています。私という意識が、自己と世界の関係ができるだけ一致することが増えるようになる方向に人生を歩むことが、生き易い人生を発見・創造することと考えます。

走っている馬に無心になって感動した体験が先にあって、「私、馬が走っているのをみてとても感動した」と語れるようになるような生き方が大切と考えており、「走っている馬をみて感動しようとしても無理」と考えるわけです。西田幾多郎という哲学者がいっているように、「私があって経験しているのでなく、経験があって私がある」といえます。「感じるところを考えることが大切」なのであって、「いくら考えていても感じることはできない」といえます。

観察する私の意識が、観察対象となる私自身(自己)と世界との間で、不一致ばかりが続くような生き方は苦悩ばかりの人生となります。しかし、自己と世界の不一致に苦悩しつつも、自己と世界の一致の瞬間を、より多くでも直接体験として経験できるような生き方ならば、より幸せな方向に向かって生きることが可能となると考えているわけです。
(定森 恭司)

脳と“こころ”

最先端の脳の科学的研究からは、「何かの影響」によって変化する脳の現象の神経生理学的な特徴や情報処理のプロセスなどを画像やモデル化して可視化することが可能な時代になりました。が、しかしそうした研究成果も、「何かそのもの」について研究しているわけではありません。そして、「何かそのもの」こそ、普通、“こころ”と呼んでいるものにあたります。

“こころ”そのものは可視化不可能ですが感じるものとしてあることがわかるものです。それだけに、普段可視化不可能と思っていたものが脳の研究を通じて可視的に表現されてくると、あたかも脳の働きが“こころ”そのものであるかのように錯覚してしまいます。しかしながら、“こころ”の現象のある一側面が脳の働きとして明らかになるといえても、“こころ”=脳とは言い切れません。

実は、“こころ”に関する研究において最も注意しておかなければならないことがあります。“こころ”の研究では、“こころ”の多様な現れの中の、一体、何を“こころ”の現象として観察対象として選ぶかというということです。多様な“こころ”に認知の働きを見ようとする人は、認知の働きのパターンを発見することができます。感情の働きを見ようとする人は、感情の働きのパターンを発見することができます。対人パターンを見ようとする人は、対人パターンを発見することができます。同じように、脳の働きを見ようとする人は、脳の反応パターンを発見することができるのです。そして、そのいずれも“こころ”の多層多次元な現れの一面を表現しているという意味では、別に間違っているわけでもないのです。

大切なことは、“こころ”の多様で複雑な現れを、そのままより全体的により統合的に理解していくことにあるといえます。 (定森 恭司)

「それ」の心理学的トポロジー

 

ホロニカル心理相談で、「それ」と呼称するものは、人によって異なるイメージとして象徴化されます。「神」のイメージであったり、「仏」のイメージであったり、「宇宙」や個人的にイメージ化された「世界」の比喩であったりします。

しかしいずれの場合も超個人的なものとして体感されています。

この時、天井の方向など上方の方向に「それ」を感じるか、下方からやってくるものとして感じるか、自分と世界が融即し特定の方向に位置づけられないものとして感じるかは、個人が所属する社会・文化の影響によって異なるように思われます。

西欧文化は、キリスト教にみられるように上方に位置づけられやすく、それに対して、万の神の日本では、全体方向に体感されることが多いように思われます。 (定森恭司)

対話の中で新しい神話を創発する

人は知らずのうちに神話的世界に生きています。宗教を否定し、合理的で客観的である科学的価値体を信じる人でも、神話が科学的価値に置き換わっただけの神話的世界に生きているといえます。

人は神話的世界に生きているため、それまで信じてきた価値体系や世界観を根底から揺さぶるような異文化に接触すると深刻な心的危機状態に陥ります。それでも危機をもたす異文化でも、それなりに消化・同化することができたならば、再び安定を取り戻すことができます。しかしながら、“こころ”の深いレベルを揺るがすほどの異文化の場合は、これまでの神話を意味づけていた言語体系や真理の枠組みと異質なものとなり、とても受け入れ難いものとなります。この時、これまでの神話的世界からの,抵抗は、言語的なものというよりは、よりで感情的、より衝動的なものとして表現されます。ひとつひとつの言語の識別や言語の価値を意味づける深層レベルでの非言語的表象世界がまったく相容れないためです。このことは、神をめぐって異なるイメージを抱き合うために苛烈な宗教戦争を繰り返してきた過去の歴史をみれば明かです。

A神話とB神話が衝突した時、A神話がB神話をA神話化しようとしたり、B神話がA神話をB神話化しようとすると、お互い生存をかけての激烈な対立となるのです。

しかし、激しい異文化接触の場合でも、A神話はB神話の影響をうけて、これまでのA神話の価値の体系的統合性を解体させながらも、より新しい統合的な価値体系であるC’神話を創造する場合があります。また、B神話も同じように、これまでのB神話の価値体系の統合性を解体させながらも、新しいC”神話を創造することがあります。A神話とB神話の異文化接触が、お互いより近似的な新しいC神話に向かう可能性をもったC’神話とC”神話を創発するわけです。

この時、C’神話にもC”神話には、共に微妙な差異を示しつつもA神話・B神話が弁証法的に再統合されています。

高度技術革新・高度情報化・グローバリゼーションの時代にあっては、世界中の多様な異文化接触に晒され続け、多くの人々の心的世界を揺さぶり続けます。 それだけにこうした多様な異文化接触においては、ある文化が他の文化を支配したり、統合することなく、お互いが異文化接触に伴う不確実性に耐えながらも開かれた対話のうちに、お互いが新しい神話を創り出し続けあっていくような関係づくりが望まれます。   (定森恭司)

いい子ばっかりなんですよ

写真は4月3日の山崎川のさくら

この3月末に、以前勤めていた大学の中にある本屋さんに顔を出しました。新学期の準備を、お店の人皆さんわいわいがやがやと楽しそうにしていました。「この雰囲気がいいねえ、学生もほっとするよね。学内でこんな雰囲気のところあんまりないよ」と伝えたら、「そう? 私達これが普通だよね」「それに来る子は、いい子ばっかりだよ」との答え。

 

本当にそうか? いい子しか来ないのか? そんなことはないと思う。
「いい子」というまなざしを向けられているから、そういう態度で接してもらえるからここに来る子は「みんないい子」なんだと思うけど。人はいつだって関係性の中で「人」なんだから。「評価」「あら探し」のまなざしばかりにさらされていたら、息苦しくて、「いい子風」になるか「悪い子」になるという道を選ぶのでしょうか。

とはいえ、悲しいかな「映画マーズアタック」(火星人が地球に降り立ち、のんきに大歓迎を表明する地球人を次から次へとやっつけていく・・・)の世界が、この地球上、人間同士でも起こりうることも承知はしていますが。せめて自分はマーズにはなるまい。

定森露子

臨床心理士は、治療者か? それとも相談相手か?

病気、障害や深刻な問題を背負った人と臨床心理士が向き合う時、病気、障害や深刻な問題を、治したり、回復を図ったり、解決をする人として登場するのか、それとも病気、障害や深刻な問題を前にした時、どのように生きれば人生がより生き易くなるのかを、共に模索する人として登場するかは、その後の関係に大きな違いをもたらします。

両者はとても似ていますが、人間関係の捉(とら)え方においてパラダイムが抜本的に違います。こうしたパラダイムの違いを十二分に承知しておかないと混乱することになります。

※心理相談室“こころ”の臨床心理士は、よき相談相手になろうと日々努力しています。